鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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らない存在が恵運(798~869)開基の安祥寺(京都市山科区)で,むしろその勢いがから小野流を受法した厳覚(1056~1121)の弟子で,安祥寺中興の祖となった。そのである大元帥法の本尊画像6幅を安置する場として重要であった。大元帥法は法琳寺から理性院へすんなりと継承されたように説明される場合が多い。だが,忘れてはな理性院にまさっていた時期もあった。本稿では安祥寺がはたした役割の再評価を課題の中心として,法琳寺別当という地位の代名調であった本尊画像の伝来を追ってみたい。さらに考察の結果をふまえ,理性院が本尊画像を管理する体制が完成したことの意義にも目を向けることとする。1,安祥寺の興隆本尊画像の伝来について考えるには,法琳寺別当職の移動をみてゆく必要がある。法琳寺別当への補任は,6幅構成の本尊画像を用いた正式な大元帥法の勤修者として公認されたことを意味する。醍醐寺本は正和2年(1313)に法琳寺大元堂とともに本尊画像が焼失したため,その年のうちに「賢信jという名前のみ伝わる絵師によって新たに描かれたものに比定されているが(注4),制作の主体についてははっきり述べられたことがなかった。周知のとおり本画像は理性院に伝来したものだが,理性院は正和2年の時点では法琳寺別当職から離れているので,再興への関与はありえない。そのときの別当は安祥寺の光誉(?~1333)であった。12世紀以降,法琳寺別当の座をめぐって諸派が争うなか(注5),目立ってきたのが安祥寺の動向である。大元帥法の歴史における安祥寺の位置はきわめて重要なので(注6),ここで改めてその存在意義を確かめておきたい。小野流のなかの一流派として安祥寺流が成立したのは宗意(1074~1148)の代である。宗意は範俊(1038~1112) 弟子の実厳(?~ 1185)は治承5年(養和元年,1181),安祥寺流で最初の法琳寺別当に補任された(注7)。それ以降も南北朝時代に至るまで安祥寺は次々に法琳寺別当を輩出した。光誉は正安2年(1300)に法琳寺別当となった(注8)。光誉は2度にわたって法琳寺別当に補任されたが,正月の大元帥法を修したこと以外の具体的な活動については史料に記述がないためよくわからない。しかし光誉の勢力は,大元帥化現の地という縁から法琳寺の影響下にあったとみられる,秋篠寺の別当として起こした行動からうかがうことができる(注9)。秋篠寺は寺領をめぐって西大寺と11世紀後半から争い547

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