を続けており,13世紀なかば以降,しばしば実力行使に及んだ。嘉元元年(1303)には西大寺側の主張に近いかたちで相論はいちおう決着した(注10)。ところが秋篠寺側は決定を不服とし,光誉は正和5年(1316)に悪党を西大寺領に遣わして略奪や堂舎の破壊をおこなったのである(注11)。秋篠寺では正応2年(1289)に伝党天立像が修理されるなど(注12)鎌倉時代後期に復興が進められたが,これは西大寺との対立が深まってきたのと時期的に一致する。復興事業を推進した寺勢の充実は,同時に対外的な行動の原動力にもなったのである。作風よりそのころの制作とみられる一面六腎大元帥明王立像も,当初から秋篠寺に伝来したと認められるならば,怨敵降伏の明王という性格から,西大寺との抗争を背景として造像された可能性が浮かび、上がってくる。誇張された念怒の表情や太造りで威圧感に満ちた体躯は,闘争の精神的支柱として本像が集めていた期待のあらわれといってよいかもしれない。本像の成立事情を明記する史料は知りえなかったが,抗争の激化が大元帥彫像造立の気運を高めたとすれば,直接的な衝突をひきおこした光誉のような人物を彫像造立の推進者とみるのも一案であろう(注13)。秋篠寺が西大寺に対抗できたのは法琳寺別当の権威が背後にあったのが一因で,光誉の時代は寺勢の最高揚期といえる。秋篠寺別当として光誉がとった過激な行動は大元帥法勤修者としての自信に満ちており,そのまま14世紀初頭における安祥寺の勢力をあらわしている。次に,大元帥法本尊画像の焼失に直面した光誉がとった対応を考えつつ,再興された本尊画像が移動するまでをみてゆきたい。2,本尊画像の焼失と再興光誉が秋篠寺別当として西大寺との抗争を進めるいっぽうで法琳寺では正和2年2月4日,大元堂と本尊画像が焼失した。法琳寺別当の光誉は本尊画像再興にあたり,もっとも責任ある立場にいたであろう。そしてこの6年後の元応元年(1319)に,安祥寺に大元帥法の本尊画像が置かれていた形跡がある。それを示す史料が,以下に引く『醍醐寺文書』中の(1)I俊増太元帥法本尊道具請取状案Jと(2)I太元帥法本尊道具目録」である(注14)。請取太元御修法御本尊道具等事(1) 俊増太元帥法本尊道具請取状案548
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