鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
560/716

に再興されたー具,すなわち現在の醍醐寺本にあたる蓋然性が高い。画像移動の理由の良伊(光誉の弟子)にかわって法琳寺別当に補任されたことである(注15)。別当交替の直後に本尊画像が前別当の寺を離れていることから,本尊画像が別当職に付随して移動する新しい慣例が成立したと考えられる(注16)0 (1)は送付先が記されず,i俊増」がどのような人物なのかも不明だが,新しい別当のいる理性院以外に本尊画像が送られたとは考えにくい。(1)(2)は別当職が安祥寺から理性院に移ったのに伴い,本尊画像も理性院に送られたことを示す史料といってよいだろう。本尊画像が再興されたときの法琳寺別当は光誉だったこと,その6年後の時点で安祥寺に本尊画像があったことを確認した。その間別当をつとめた光誉と良伊は師弟関係にあるから,信耀の補任以前には新しい画像が移動する要因は考えられない。よって元応元年に安祥寺にあった本尊画像は,再興以来同寺に置かれていたことになり,ひいては画像の再興が安祥寺でおこなわれたとの推測を可能とする。この問題を考えるうえで,正智院本「青面金剛図像JC図4Jはたいへん興味深い情報を提供してくれる(注17)。青面金剛の魁偉な像容と春属の詩語味を含んだ表情は意識的に描き分けられ,画技に習熟した筆者の手になることを思わせる。本図像には「大青面金剛像以安祥寺経蔵本多倶j(摩)賢信移之正和三年十月二日範意Jの裏書がある。注目したいのは,本図像の筆者は大元帥法本尊画像を描いたという「賢信jと同名で,そのうえ「多倶摩」姓を名乗っていることである。「多倶摩」は,平安時代より活躍が知られる画派の姓である,i宅間jにあたると考えられる。この「多倶摩賢信」が正智院本を写したのは醍醐寺本が描かれた翌年で,2人の「賢信Jが同一人物である可能性はじゅうぶんにありえよう。さらに,裏書によれば正智院本の原本は「安祥寺経蔵本」なので,i多倶摩賢信」の活動領域に安祥寺が含まれていたとわかる。このことは,同名の絵師によって前年に描かれた醍醐寺本を安祥寺で制作とする,さきの想定の信憲性を高めてくれるのである。光誉の法琳寺別当在任中に再興された醍醐寺本が信耀の補任まで安祥寺に存在していたとみられることに加え,醍醐寺本の筆者と同名の宅間派の絵師賢信が安祥寺の図像を写していることが判明した。これらを検討した結果,醍醐寺本は光誉の指揮のもと,安祥寺で制作されたとみてさしっかえないだろう。安祥寺の本尊画像保有は,法琳寺大元堂を安置場所とするシステムの変容を意味する。それが認められた理由は史として考えられるのは,これに先立つ閏7月,理性院の信耀(l267~1332)が安祥寺550

元のページ  ../index.html#560

このブックを見る