鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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料的には不明だが,正和年間ころ光誉の勢いがさかんだ、ったことは,秋篠寺別当としての活動にみたとおりである。火災の責を負わされて罷免されることもなく,光誉は翌年も別当職にとどまっている。光誉は新しい本尊画像,すなわちこんにちの醍醐寺本を用いた最初の人物だったであろう。その権勢は,本尊画像の管理体制の変化に大きく影響したと考えておきたい。醍醐寺本をめぐる美術史的研究において,安祥寺の動向はあまり注目されてこなかったが,その介在を認めることではじめて成立と伝来のありさまがわかってくるのである。3,理性院の大元帥法専管と本尊画像所有大元帥法に強い執着をもっていた賢覚にはじまる理性院にとって,信耀の法琳寺別当補任は画期的なできごとであった。ただし,光誉は元亨3年(1323)にふたたび別当に補任され(注18),翌年には東寺長者に加任される(注19)など,ますます勢力を強めている。光誉の別当複任の際に本尊画像が安祥寺に戻ったことを示す史料はみいだせない。だが,信耀が別当に補任された元応元年に本尊画像の移動があったように,別当職が他の寺院に移った場合には本尊画像も伴われていったと思われる。光誉以後も安祥寺は続けて別当を出しているので,そのあいだは本尊画像は安祥寺に置かれていただろう。次に別当職が理性院に戻ったのは永和2年(1367),宗助のときである(注20)。現在の醍醐寺本が理性院に伝来するようになったのはこのときからとみてよいだろう。宗助ののちは理性院出身の別当が続いた。信耀は一代限りで、別当職を光誉に譲ったが,宗助の別当補任は理性院が大元帥法および本尊画像を長きにわたって手中におさめる端緒となったという意義をもっ。同年,安祥寺は前年に破損した恵運請来の五大虚空蔵菩薩坐像を自力で修理できないまま観智院に譲り渡している(注21)。この一件から,もはや安祥寺が昔日の勢いを失っていたのは明らかである。寺勢の衰退は安祥寺が法琳寺別当職を手放した一因と考えられる。ここまでの考察により想定しうる,醍醐寺本の伝来について以下にまとめておこう。まず,正和2年2月の火災までは,大元帥法本尊画像は法琳寺大元堂にあった。そのときの法琳寺別当光誉は,本尊画像の管理者として再興の中心となる責任があった(注22)。年内に賢信によって新たな本尊画像が描かれた。醍醐寺本に比定されるこの画像は再興後,光誉が手元で管理していたようである。元応元年9月までは本尊画像551

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