注6幅は安祥寺にあったが,法琳寺別当職の移動によって新別当信耀のいる理性院に送られた。理性院にとってはじめての本尊画像保有である。信耀の次の別当には光誉が複任され,本尊画像も安祥寺に戻ったであろう。その後安祥寺出身の別当が続くが,理性院の宗助が別当に補任されたのちは他派出身の別当はあらわれなかった。このような経緯があって,大元帥法本尊画像は理性院に伝来するに至ったのである。おわりに大元帥明王の怪奇な姿を力強い筆致と鮮やかな彩色で6幅の大幅に描いた醍醐寺本は,かつての法琳寺別当の権威を如実にものがたる遺品である。本稿では大元帥法本尊画像について,安祥寺と理性院のかかわりを中心に論じてきた。両者の関係は,諸派が分立して独自性を競った小野流内の状況を端的に示す好例である。そして醍醐寺本の伝来には,法琳寺別当をめぐる三大勢力であった安祥寺と理性院のはざまをゆれ動いてきた歴史を認めることができる。最後に理性院による本尊画像保有の意義をみておきたい。法琳寺大元堂が消滅した結果は,大元帥法の修法所として公認された法琳寺を介さず,安祥寺や理性院が本尊画像を直接管理する体制の成立であった。やがて理性院は大元帥法を完全に掌握し,本尊画像を長く管理するに至ったが,それには再興後の画像を安祥寺がそのまま保有していたという前提があった。法琳寺を本尊画像の安置場所とする根拠は,常暁の奏請にたいする国家の承認にさかのぼる(注23)。安祥寺そして理性院の画像保有は,法琳寺大元堂のもっていた公的な機能を一寺院がとりこんだことを意味し,ひいては修法そのものの独占にもつながった。大元帥法の「公Jの修法という性格は残しつつもそれを本尊画像とともに理性院が自分のものにしたところが,南北朝時代という動乱期に訪れた,大元帥法の歴史上もっとも大きな転機だ、ったのである。(1) 有賀祥隆「大元帥明王図像雑孜J(稲垣栄三編『醍醐寺の密教と社会J山喜房仏書林,1991年),若杉準治「普峰寺大元帥明王画像考J(r皐叢.114号,1992年)(2) 拙稿「法琳寺大元帥明王彫像の成立J(r密教図像.120号,2001年刊行予定)(3) r太元秘記.1(東京大学史料編纂所蔵,柳原家記録第109巻)I霊験事」。本書は寛政10年(1779)に「理性院御巻」を写したもので,大永7年(1527)の原奥書を有-552
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