(朱描)(14) r鎌倉遺文J古文書編第35巻,27242, 27243。これらはひと続きで,さらに9月7日付「増賀書状J(同巻27225)が続く。『大日本古文書Jはこの3点の文書を「太(15) r太元秘記JI第五十六法印信耀・元応元年間七月十七日宣下。」岡本尊画像再興を記す史料も,その旧来の安置場所である法琳寺大元堂の再建につ臼Dr続日本後記』承和7年6月3日条(r新訂増補国史大系』第3巻日本後記・続聞については(注5)山岸氏論文参照。不退寺,岩波書庖,1978年)同光誉が秋篠寺別当だ、った期間は不明だが,正和5年の時点では法琳寺別当と兼務している。法琳寺と秋篠寺の関係から,おおむね法琳寺別当職の在任期間と重なるとみてよいと思われる。元帥御修法本尊道具請取状等案jとして収録するが(家わけ第十九醍醐寺文書之六,1233),日付の異なる「増賀書状Jは前者2点とは区別しておきたい。いては言苦っていない。制大森照龍「青面金剛図像j解説(r高野山正智院の歴史と美術』展図録,高野山霊宝館,1998年)同『太元秘記JI第五十七権僧正光誉・元亨三年七月七日複任。」(19) r東寺長者補任』正中元年(元亨4年)条「前僧正光誉九月六日加任宣下,(後略)J倒『太元秘記JI第六十三代前大僧正宗助・永和二年月日宣下。」(21) r大正図像J6 -94。問理性院の公厳は応仁2年(1468)の「権大僧都公厳陳状案J(r大日本古文書J家わけ第十九醍醐寺文書之六,1300)で,実厳が「安徳天皇御事」の元凶となり,さらに光誉の代に法琳寺大元堂が灰憧と帰したと,安祥寺流を攻撃している。理性院側では光誉の名が法琳寺大元堂と本尊画像を焼失させた責任者として記憶されていた様子がわかる。日本後記・日本文徳天皇実録)554-ω 丈保元年(1317)12月「大和西大寺僧訴状J(r鎌倉遺文J古文書編第34巻,26505)。ω長谷川誠「伝党天立像J(r大和古寺大観J第5巻秋篠寺・法華寺・海龍王寺・
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