(1820-1822/23年,GW.1619) (図10)における民衆の表現の特徴は,従来の主要な研意味していたという(注8)。独立戦争前より政府はカーニパルの乱痴気騒ぎをくり返し禁じてきたが,これら民衆の「悪習」を非難した戦前の啓蒙主義者たちは,彼らの祝祭の中に社会秩序の維持を脅かす可能性を既に感じ取っていた。例えばホベリャーノスの日記におけるエスキラーチェの暴動(1766年)に関する以下の記述は,彼がこの同時期最大の下層階級の暴動を,民衆の祝祭と結びつけて理解していたことを示している。「サン・ベドロの夜王宮間近に騒動を聞いた国王は,1766年以降,民衆の動きに恐怖を覚えるようになった」。ホベリャーノスによると,暴動の原因を問うた国王に対して,従者ピニは以下のように答えたという。「それ(暴動の原因)は,あの夜テラ(注9)で踊りと娯楽に興じることを習慣としている庶民たちですJ(注10)。しかし,ゴヤが戦後再び取り上げる民衆の祝祭の姿は,戦前の風刺的な特徴と比較して,はるかにグロテスクで狂気に充ちている。戦前から戦中にかけての宗教行列の場面の多くが比較的遠景から描かれ,祝祭的で喧喋的な様子はうかがえるものの,人々の表情はほとんど判別できないか,もしくは時にこっけいみを帯びた歪曲が加えられている程度であるのに対し(ex.{村の宗教行列>1786-87年,GW.253 (図7]/〈パレンシアの宗教行列>1810寸2年,GW. 952) ,戦後に至ると,取り愚かれたように聖歌を歌う修道士の表情を強調した素描(1素描F.44J 1812-23年,GW.1469) (図8),そしてさらに激しい歪曲が加えられたく黒い絵〉へと,人々の非理性的な姿がよりクローズ・アップされるようになる(注11)。さらに〈サン・イシドロの巡礼〉他〈黒い絵〉のいくつかの作品では,グロテスクな人々の表情が積み上げるように次々と重ねられることによって,無数の人々が密集している様が強調されている〔図9)。そしてこれらの妄信的な人々の群れは,側面から行列の様子をとらえる当時の間主題の一般的な版画等とは異なり,こちらに迫り来るよう描かれることによって,観者に恐怖の感覚すら与えるのである。〈黒い絵〉に関しては,先に挙げたノルドストローム他いくらかの研究がゴヤの個人的精神性の顕れとしてとらえている一方,同時代の政治的出来事に結ぴつけた解釈もなされている(注12)。しかし,上述のようなく黒い絵〉の巡礼者たちの特徴,あるいはアルカラ・フレチャが「人間性を喪失したマッスとして,容易に帰順させ支配することのできる怪物として表された,野蛮で妄信的な民衆J(注目)と呼んだ〈宗教裁判〉560
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