2.スペイン独立戦争における民衆究が行ってきた図像解釈,美学的理念からの説明,ソース特定といった方法のみでは,説明が与えがたいように思われる。以後の章では,宗教行列,巡礼,民衆の祝祭に対し,この時期のゴヤがいかなる視線を注いでいたのか,という問題について,画家の思想と表現を憶測的に「近代性jの一語に帰すのではなく,より同時代的文脈に沿った検討を行っていきたい。確かにノルドストローム等の指摘する通り,<黒い絵〉の制作時期は,フェルナンド7世による専制王制が一旦終わりを告げ,3年間の自由主義政権を迎えた時期に概ね該当する。ゴヤは同政権と同政権が復活させた憲法に宣誓しており,また彼の戦前からの思想、を考慮しても,同政権を支持していたことは疑いない。しかしこのような概観的政治背景のみから,<黒い絵〉が同時期の政治的側面と切り離されるべきだと断じるのは早計であろう。宗教裁判が廃止され反教権的思想が再び著しく頭をもたげたこの時期には,下層階級の動きと信仰に関わる新たな問題が注目を集め,当時急増した定期刊行物等においてしばしば熱い口調で議論されるに至っているのである。これら同時期の下層階級に関わる諸問題は,この時期のゴヤの民衆像のいくつかの特徴的な要素と強い関わりをもっていると報告者は考えている。この3年間の自由主義政権期における民衆の問題に入る前に,それに先立つ独立戦争における下層階級の問題について,スペースの都合上極めて表層的にならざるを得ないものの,若干の概観を行っておきたい。ナポレオンの侵略に対する独立戦争(いわゆるスペイン独立戦争,1808-1814年)における下層階級のゲリラ戦による活躍は,この階級が初めて国の行方を左右する存在として歴史の表舞台に現れ出る契機となった。当時の多くの版画が民衆の英雄的な闘いを取り上げ,これらの中で彼らは従来この階級に与えられることのなかった気高き愛国者としての表現を与えられるようになる。一方,戦中には同時代のヨーロッパ諸国における市民革命に類似した一連の動きが起こっている。当初身分ごとの代表であったが最終的に地域代表により構成される近代的議会の形をとることになったカディス議会は,国民主権の原則,出版の自由,領主的諸権利の廃止など,自由主義的思想、を反映した決定を次々と下し,これらの動きの中で,戦前の啓蒙主義に見られなかった「市民」の概念と法の下での平等の意識がスペインに芽生え始めたことがうかがえ561
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