(3) 1924年一1925年第l次滞仏時代作品蒐集のはじまり6 )。いまlつは資質的遺産ともいうべきものである。相場師としてなめた辛酸から「株屋」は一代だけとし長男繁太郎には後継をかたく禁じた父の遺言を守って国際法学者の道を進んだ福島だが,後年,美術批評家,画廊主へと大きく方向を転じた背景を考えるとき見過ごし難い,時代を読み,時代に賭けるという事業家的資質も,おそらくは父波蔵からの資質的遺産に負うものだ、ったと考えられる。このことも,他例を見ないコレクション形成の淵源のlつをなしているようである。東大在学中に三菱の重役,荘清次郎の4女,慶子と結婚した福島が,新妻をともないロンドンに留学したのは大正11年(1922)だ、った。しかし,籍を置いたロンドン大学での研究生活はl年足らずで終わり,翌23年7月のパリ旅行をきっかけに9月l日より後にはパリ郊外のヌイィの1戸建て住宅に移り住むようになる(注4)。ヌイィでの生活は,大正14年(1925)の夏,関東大震災の後始末のため一旦,夫人慶子とともに帰国するまで続いた。この間にあって福島がフランスの画家と最初に親しく接したのはモネであり,パリに移り住んだ翌年,大正13年(1924)5月のモネ訪問のおりだ、った。三菱商事パリ支庖長,久我貞三郎から誘われ,久我のほか当時アトリエをたたんで帰国準備中で一時福島宅に身を寄せていたという正宗得三郎,福島夫妻の4人でノルマンデイーのジヴエルニーにモネを訪ねている(注5)。おそらくこの年にはすでに画廊回りも始まっている。福島がエッセイ等で書いている画家で編年的にモネにつづいてその存在を意識したのはスーチンだったようである。1924年の秋,セーヌ通りのビエール・ロエブ画廊の陳列窓でスーチンの作品(風景)をはじめて目にし,中に入り画家の名前を知るとともに25号の〈半身の牛肉の絵〉を見たという。この画廊はピエール・ロエブという青年が経営しており,見所のある新進作家に目をつけているので度々訪ね,すでに友人のような間柄になっていた(注また,作品蒐集では,恐らくこの年に,ベルネーム・ジ、ユヌ画廊でドランの〈女の胸像〉を購入。ドラン蒐集の第1作になったこのときの買い物は,ボナールの〈女と鳥〉とドランの〈女の胸像)(1921年・12号)のいずれを選ぶかと迷った末にボナールを断念しドランに決心したという(注7)。-573-
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