(5) 1927年一一転居,サロン化した福島邸ピカソ蒐集では,開催時期が現在のところ特定できないが,ジョン・クインのコレクションでアメリカでの売れ残りがパリのローゼンベルグ画廊で公開されたことがあり,そのおり福島は,ピカソの〈母子像>(青の時代)と〈農民〉を買っている。アンリ・ルソーの〈眠れるボヘミアン>(現・ニューヨーク近代美術館)は悩んだ末,断念(注23)。ピカソ関係では,この大正15年(1926)の6月にローザンベール画廊でピカソの個展がひらかれており,福島が,出品作はすべてネオ・クラシスムの作品で〈恋人〉〈ターバンの女〉などが欲しかったが値が極端に高かったので、見送ったと書いているのは,おそらくこの展覧会のことだろうか。その2年ほど後に同じローザンベール画廊で〈アルルカン〉を金を算段して購入(注24)。また,この1926年の12月より前にベルネーム・ジ、ユヌ画廊の近作展でマテイスの〈赤い静物〉を買っている(注25)。福島よりやや遅れてこの年の秋,夫人慶子が,繁太郎の母多幾のもとに預けていた長女葉子を連れ日本からパリに向かった。親子3人の生活がはじまるのはこの時からで,12月には家族全員でマティスをニースのフエリックス街1番地のアパートに再訪した。このとき,マテイスは,日本人画家,青山義雄の名をあげ,色彩画家としての青山の才能を評価して福島に知り合いになるよう勧める(注26)。以後,マテイスに一層の親しみをもち,毎年冬はニースにすごすことにし,その滞在中何回かはマテイスを訪ねることが定例化した。福島一家が,コレクションで手狭になったブールドネイの住居を引き払い,高級住宅地の一角,パリ16区アヴェニュー・ヴイヨン・ウイットコムに転居したのは,昭和2年(1927)の秋からで,ここは,すでに親しかったピアニストのジル=マルシエックスの家と5分位の距離だ、った。彼の娘も一人子で娘葉子とおなじ年だったので常に行き来して交流する。パリ生活の最後の住宅となるこの家に移り住んで以降は,多くの人びとが団築をもとめて,あるいはコレクションを見にこの家を訪ね,福島邸は一種のサロンとなったという(注27)。シュール・レアリスムのイ乍家としてマックス・エルンストとジョアン・ミロカミ画商の窓に現われるようになったのは,福島によれば,この年(1927年)ころからで(注28) ,エルンストの小品〈員〉は,この年から翌年10月までの聞にコレクションに入っ576
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