たようである(注29)。サインがなかったのでその旨を伝えるとエルンストは福島宅を訪ねて署名してくれたという(注30)。おそらくセーヌ通りにあったヴァン・レール画廊から手に入れたもので,エルンストその人とは,彼の絵を取り扱っていたこの画廊でしばしば顔を合わしていて親しく話す間柄になっていたという(注31)。一方のミロについて福島は,I構図に締りがないように思ったので,もう少し後にと買い控えて」いる内に機会を逸したと書いている(注32)。一体にシュール系の画家に余り興味を覚えなかったのは,ピカソのキュピスム時代への関心の低さとともに福島の絵画観の一つの特徴である(注33)。こうした聞においてもコレクション中もっとも多くを占めるドラン作品の蒐集は進行していたようだが,ドランその人と相識を得るのは昭和3年(1928)の初秋からである。モンパルナスのカフェー・ドームで画商のアッシエールが紹介したという(注34)。これがきっかけとなり福島がアッシエールを介してドランに夫人慶子の肖像画制作を依頼したのは翌1929年5月。ドランが承諾したので,アッシエール同道で夫人慶子が打ち合わせのためパリ郊外のドラン宅を訪ね,絵は25号程度の大きさで2週間後に制作に着手すること,ドランの方から毎日午前中に福島宅に出向くことなどを決めるが,この計画は慶子が病気になり流れることになる(注35)。昭和3年(1928)のことでもうひとつ特記すべきは,マティスの〈黄衣〉がコレクションに入ったことである。福島がオテル・ドルオーでのオークションで23万フランという高額で競り落としたことは,I以来マチスの市債を高からしめるJ(注36)ことになった。この時,{黄衣〉のほか「庭の篠椅子に女の休んでゐる董とオダリスク」の計3点を福島は競落した(注36)。前者は〈樹聞の憩},後者は日本に持ち帰った2点の〈オダリスク〉のうちのl点だろう。福島のルオー蒐集は遅くともこの年(1928年)ころまでには広く知られるようになっていただろう。それを物語るのは,この年,ロシア・デイアギレフ・バレー団のディレクター,セルゲイ・デイアギレフらがルオーの作品を見に大挙して福島家を訪ねてくる事件があり,用件は,翌年のサラ・ベルナール劇場での新作バレーの公演で舞台装置と衣裳デザインをルオーに委嘱したいので,1度,ルオーの作品を見ておきたいというものだ、った。ルオーの紹介状を持っていたというので,福島の存在はルオーその人にも知られていたに違いない。デイアギレフのほか主席女性舞踏家のダブルヴォースカとダニロヴァ,作曲家のプロコフイエフ夫妻,舞踏振付のリファールほかの577
元のページ ../index.html#587