(6) 1928年「美術新論」によって知られるコレクションの大要(7) おわりにメンバーだ、った。結果として翌年の出物はルカ伝に取材した『放蕩息子』をバレーとしたものに音楽はプロコフィエフ,振付はリファール,デコールはルオーと決まった(注37)。大正12年(1923)にはすでに始まり,1926年頃から本格化し,実質的には昭和6年(1931)の4月に終わる(注38)福島の蒐集活動において全体の蒐集状況が分かるのは,国内の文献では美術雑誌「美術新論」での熊岡美彦による一連の報告記事からである。第l回が1929年2月号増刊号での報告なので,1928年12月時点での蒐集状況である(注39)。整理してみると,主要画家でこの時点でほぼ蒐集が終わっているのは,ドラン(24点),スーチン(5点),モデイリアニ(3点),ルソー(3点),ブラック(3点),スゴンザツク(2点),ヴラマンク(1点),マックス・エルンスト(1点)である。一方,この時点以降にさらに作品が追加された画家については,ルオー16点がこの後1928年12月から1931年4月までにさらに9点を追加して25点,同様にピカソ14点が3点追加して17点,マテイス8点(注40)が2点追加して10点である(注41)。追加された作品のうち注目されるのはピカソの3点で,これまでになかった青の時代の母子(現・フォッグ美術館),キュピスム期の裸婦(現・ひろしま美術館)が加わることでピカソの各節目の作品がl部を除いて揃うことになる。これは蒐集活動の最終期にいたってコレクションの体系性を意識した1面を窺わせる。福島が家族とともにパリを離れるのは昭和8年(1933)6月だが,福島自身はすでに1931年4月から33年5月までの間,日本に帰っていてパリにはいない。したがって先にふれたように蒐集活動は実質的には1931年の時点でほぼ終わっていたと考えられるが,パリに帰った彼にはこの聞に形成されたコレクションのこれからを考えなければならなかった。フクシマ・コレクションは,山口県立美術館が平成3年に企画開催した「戦後洋画と福島繁太郎昭和美術のl側面j展の際に調べたところでは110余点が確認されたが,延べ点数では150点はあったとされている(注42)。このうち帰国に際して作品の輸送費や旅費のために一部処分し(注43),結果的に日本に彼が持ち帰っ578
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