注(2) ちなみに福島浪蔵商庖は株式会社山叶商会に発展し,その後,昭和42年に大商証(3)福島繁太郎長女,福島葉子氏の口頭による教示による。(4) 福島がパリに移り住んだ積極的な理由は不明だが,少なくとも「一九二三年地震(1) たとえば小林俊介は,難波田龍起の「ギリシャ連作」における独自なマチエールたのはその半数にあたる80余点だ、った。日本に将来されなかった作品のなかには,ルオーが旧作に手を入れ,そのまま帰国の時点までに完成せず,フランスに残った作品もふくまれる。フランスに残った作品のみならず日本に持ち帰った作品も戦中戦後の聞に国外へと流出し,ニューヨーク近代美術館,テート美術館,クレーラー・ミュラ一美術館,テイツセン・コレクションなど世界的な美術館等に収蔵された作品も多い。このたびの報告は,収集された情報のほんの一部に限定して記述せざるをえなかったが,これからさらに整理をすすめていきたい。形成に,このとき公開されたルオ一作品が決定的な影響を与えていること,また松本俊介もこの展観を機に画風を変化させた等のことを指摘している(小林俊介「難波田龍起「ギリシャ」と油彩の古典技法Jr現代芸術研究1j 1996年)券,王塚証券との三社合併によって資本金32億5000万円の新日本証券株式会社として生まれ変わった(r新日本証券二十年史j1987年)。のあった年の七月,ロンドンもそろそろ飽きたので,ふらつと巴里へやって来ましたjといった記述(福島繁太郎「蒐集董に就いてJr美術新論j1929年(2月号17頁)を読むと,パリ生活も当初からの計画にあったとは考えられない。が,しかし,当時パリで絵を学んでいた幼な友達,高畠達四郎によれば,このおりアトリエにふらつと訪ねてきた福島が語ったこととして,その頃,彼が正宗得三郎から「ドランの風景霊」を買うべく勧められていたらしいことが分かる(高畠達四郎「福島コレクシヨンJI美術J1934年2月号10頁。パリとの人脈がすでにある程度は出来ていたことを推測させる。このときのパリ旅行で福島はフランスでのコレクション第l作めになるルノワールの『アルジヤントイユ風景j(1874)をデユラン=リュエル画廊で買っており,その推挽者は,三菱商事パリ支庖長,久我貞三郎だ、った(1私のコレクシヨンに就てJr美術j1934年2月号2頁,I私のコレク-579
元のページ ../index.html#589