(5) 福島繁太郎『フランス画家の印象j(求龍堂1950年)3頁以下(6) 福島繁太郎『フランス画家の印象j(求龍堂1950年)130頁以下(7) この作品がコレクション第2作めだ、ったことは,福島繁太郎「蒐集婁に就いてJ(8) iドランの次に展覧会でマチスを買いましたJ(福島繁太郎「私のコレクションに(9)福島繁太郎「モーリス・ド・ヴラマンクJ(r心j1955年10月号73頁)側「旧福島コレクションJ(rみづゑj1955年4月増刊号)図版101ションについてJrみづゑj1955年4月増刊号l頁,i蒐集董に就いてJr美術新論J1929年2月号17頁ほか)。久我とは,父が三菱の重役である妻慶子との関係ですでになんらかの親交が生まれており,正宗との関係も久我の仲介によるものだ、ったことは十分考えられるだろう。ちなみにルノアールは邦貨でl万円くらいだ、ったという『夕刊新大阪j1949年5月13日)。『美術新論j1929年2月号18頁。またドランとボナールのいずれを買うか迷ったことについては,福島繁太郎「私のコレクションについてJrみづゑj1955年4月増刊号l頁ほか。なお,福島慶子はこのときのことを「或日の夕方,福島は興奮しながら一枚のドランを持ち蹄って来た。きけば思い切って買ったのだという,上半身の婦人像で…この霊が,福島の董を集める動機となった記念すべき最初の一枚となった」と書いているが(rうちの宿六J文芸春秋新社1955年104-105頁), その時期を「一九二三年の確か秋のこと」としているのは,福島の複数のエッセイから推して,1924年の記憶違いだろう。ついてJrみづゑj1955年4月増刊号2頁)加)福島繁太郎『フランス画家の印象j(求龍堂1950年)137頁以下同福島繁太郎「私のコレクションに就いてJ(r美術j1934年2月号2頁),i私のコレクションについてJ(rみづゑj1955年4月増刊号2頁),i回想の作品J(r塞術新潮j1955年5月号199頁), i私のコレクションJ福島繁太郎氏1955年の手記より1966年パンフレット。同ピカソとの聞には蒐集画の修正を依頼したり(i例へば,ピカソのあの海遺に母子のゐる緒の空の部分が,少し槍具に敏が出来たといふので,ピカソに塗り替えさせたはずですj伊藤廉「福島さんとそのコレクシヨンに就てJr美術j1934年2月号5頁),偶然出会った展覧会会場で一緒に絵をみたりしたこともあった(福島繁太郎『フランス画家の印象』求龍堂1950年99頁)ょうだが,ルオーやマテイス580
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