社1934年)0 1その時分亡くなった近藤松(柏)次郎氏も巴里に居て我家の常連の(1蒐集董に就いてJ21頁)の脱稿日が1928年10月28日となっており,またおなじの聞か,医師の中村拓,画家で親しい友人林倭衛に伴われて,はじめて福島繁太郎を訪ねたのがきっかけた、った。前々年のニース訪問でマテイスに青山の名は教えられていたので青山は歓待されたという。長い交友関係に発展した。同当時の賑わいぶりを福島慶子は書いている(福島慶子『巴里の塞術家たち』創妻一人だったし,原智恵子さんも十代の娘さんで野遁地瓜麿氏,有島生馬夫人等と連れ立って殆ど日曜日毎には遊びに来ていられたから,我家の常連には董カキの他にもピアニストで賑やかであった。…青山義雄氏は董具箱をかついでやって来て,ジルの横で床の上にあぐらをかいて彼の肖像を描いたが『ピアノに向うG氏の肖像Jは青山氏の傑作の一つでジルの音楽会のプログラムにはマチスのデッサンと並べて幾度も印刷され又悌蘭西人の間でも稿賛しない者はなかったほどである」。このサロンにはやがて梅原龍三郎の紹介状をもって訪ねてきた宮田重雄が常連になり,さらに宮田の紹介で益田義信が加わる。宮田,益田との交流は終生のものとなった。また,このころにはすでに福島は美術界に多くの知人を得ていたようで,1928年には滞仏中の中山説に,詩人で美術評論家だったアンドレ・サルモンと画商ズボロフスキーを紹介したことが機縁となり,セーヌ通りにあったズボロフスキーの画廊での中山の個展が実現するが,福島はその序文を中山のためにアンドレ・サルモンに依頼するなどしている。(r中山親展図録.11990 年ほか)。側福島繁太郎「作品解説J(rみづゑ.11955年4月増刊号74頁)同『美術新論.11929年2月号に収録されたエルンストについてふれた福島の文章「美術新論」所載の熊岡美彦I福島氏コレクシヨンJ4頁には「尚極く最近にコレクシオンに這入ったものでは,オットン,フリヱヅの「風景J,マックス,エルンストの小品等があります…jとある(熊岡の文章も遅くとも1928年12月までには書かれている)。エルンスト購入については,福島繁太郎『フランス画家の印象J158-159頁,伊藤廉「福島さんとそのコレクシヨンに就てJr美術.11934年2月号4頁。倒福島繁太郎「作品解説J(rみづゑ.11955年4月増刊号74頁)別のエッセイではエルンスト自らの申し出でサインを入れに福島宅を訪れたとする。-582-
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