月号)。先にあげた追加作品24点のうちの「十数賄jが1928年12月~1929年8月,制福島繁太郎『フランス画家の印象.1(求龍堂1950年)157頁同福島繁太郎「私のコレクシヨンについてj(rみづゑ.11955年4月増刊号5頁)倒福島はピカソの作品でも「所謂,純粋アブストレの時代は,あまり理屈っぽいので,夢中になるほど好きでは」なかったと書いている(福島繁太郎「蒐集董に就いてjr美術新論.11929年2月号19頁)。シュール系もおそらくそうした目でみていたのではないだ、ろうか。同福島繁太郎『フランス画家の印象.1(求龍堂1950年)116頁以下回福島慶子「ドランの思い出j(r朝日新聞.11981年4月9日)ほか岡高畠達四郎「福島コレクシヨンjU美術.11934年2月号12頁以下)開福島慶子『巴里の塞術家たち.1(創華社1950年)63頁以下ほか同福島は1931年4月頃から1933年5月頃までの期間日本に帰っていてパリにはいない。また1933年6月には家族とともに帰国しているのでコレクションの1部処分の時間を考えると,彼の蒐集活動はルオーの場合を除けば1931年4月まででほぼ終わっていたと考えられる。倒『美術新論』の原稿は遅くとも1928年12月までにはパリから発送されており,したがって熊岡の報告もこの時点までの蒐集状況である。同『美術新論』に図版が掲載されたのは7点だが,これにはマテイスから贈られたマルガリットの肖像スケッチが含まれていない。したがって1928年12月までのマテイス・コレクションは8点になる。制この作品追加で蒐集時期をもっと限定できる資料として,熊岡の第2固めの報告があるが,それによると,r美術新論』での第1固めの紹介から熊岡が帰国のためにパリを発つ1929年8月(茨城県近代美術館の金原宏行氏の教示による)までの聞にさらに「十数黙の新作」が加わったことを報告しており,Iコローの伊太利ルのマンドリンを持てる女」及び「女j,ルオーの「ピエロj,Iパンリウ風景j,ユトリロの「ブルターニュ風景j,I巴里近郊運河j,クリスチャンベラールの「若き男」をあげている(熊岡美彦「其後の福島コレクシヨンjr美術新論.11930年1残りがそれ以降の蒐集点数ということができる。同福島葉子氏はじめ関係者の話による。女j,Iピカソの海遺の母子j,I青の時代の母子j,I黒の時代の大作j,Iルノアー583
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