⑪ 欧米に流出した「具体」の絵画作品の調査研究研究者:兵庫県立近代美術館主査・学芸員平井章一1954 (昭和29)年に兵庫県芦屋市在住の画家,吉原治良をリーダーに結成され,1972 (昭和47)年に吉原の死をもって解散した前衛美術グループ「具体美術協会(以下,具体)Jは,その初期にあたる1950年代に,今日のインスタレーションやパフォーマンスに先んじる野外や舞台を発表の場とした独自の活動を展開したことで知られている。そうした初期の活動は,1985 (昭和60)年にパリのジョルジュ・ポンピドゥー・センターで聞かれた日本の前衛美術の回顧展,I前衛の日本191O-1970Jで大きく取り上げられ,欧米,ひいては日本において「具体jの再評価を促す契機となった。しかしながら,ここで忘れてはならないのは,実は「具体jはその活動期から欧米では知られた存在であり,しかもそれは野外や舞台での従来の表現形式を超えた初期の作品によってではなく,絵画作品によってであったということである。このことを見るうえで,フランス人美術評論家,ミシェル・タピエと「具体」との関わりに触れない訳にはいかない。タビエは,戦後欧米各都市で同時的に台頭してきた俗に「熱い抽象」といわれる新しい抽象表現を「アンフォルメル(Informel)Jという独自の概念で包括し,それを世界的な前衛芸術運動に展開するべく,1957 (昭和32)年9月に来日する。タピエの来日は,いまだ戦前の旧態依然とした美術表現から抜け出せずにいた日本の美術界に「アンフォルメル旋風」と呼ばれる大きな衝撃を与えたが,タピエ自身がとりわけ注目したのは「具体jの活動であり,その絵画作品であった。今日,野外や舞台での活動がクローズアップされすぎる余り看過されがちであるが,1具体jはその初期から,そうした活動と並行して絵画作品を数多く制作し,発表していた。その中心を成していたのは,アクションや物質性を強調した表現主義的な絵画作品であり,それらはタビエの眼にアンプオルメルの概念を体現したものとして映ったのであった。以来,1950年代末から1960年代初頭にかけて,タピエは「具体」をアジアにおけるアンフォルメルの拠点として位置づけることとなる。タピエが,I具体Jの野外や舞台での作品に一定の評価を与えながらも絵画作品に注目したのは,野外や舞台での一図的,一時的な作品は海外に持ち出すことが不可能だったことに加え,タビエ自身が欧米の画廊と通じた画商的な存在であったことが大きい。「具体jのリーダ一吉原治良もまた,野外や舞台での作品を「実験」とし,I実験の-585-
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