鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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ティーナ,ミラノ)吉原治良,白髪一雄,田中敦子,向井修二,元永定正が出品。一雄,元永定正が出品。これらの展覧会に出品された作品の多くもまた,展覧会終了後日本に返却されることなく,タピエが顧問を務めていたパリのスタドラー画廊や,1960 (昭和35)年3月にタピエがイタリアのトリノに開設した国際美学研究所などに残され,一部はそこからさらにヨーロッパの個人コレクターの手に渡ったと思われる。では,タピエ経由で海外に流出した「具体jの絵画作品は,その後どうなったのであろうか。あるものは,当初の所蔵者の手を離れ,ヨーロッパの美術館のコレクションとなっている。パリのジョルジユ・ポンピドゥー・センターが所蔵する白髪一雄の「無題」ネ近代美術館に寄託されている,タピエの友人でコレクターだったアンソニー・デニー旧蔵の「具体」コレクションなどがそれにあたる。また,1980年代に入り,日本でも「具体j再評価の機運が高まるや,国内の画商によりスタドラー画廊やタピエの遺族から多くの絵画作品が買い戻された。そのほとんどは現在,各地の公立美術館のコレクションとなっている。しかしながら,これらすでに公になった作品以外にも,いまだかなりの数の絵画作品が海外に残っているものと推測される。そこで今回,白髪一雄の作品を一例に,その全容の一端に迫ることとした。白髪一雄は,天井から吊り下げたロープにつかまり,床に広げたカンヴァスのうえで足で滑走しながら描く「アクション・ペインター」として知られている。タピエは「具体jの作家のなかでもとりわけこの白髪に関心を寄せていた。それは,前記のタピエの企画展において白髪の名が頻繁に見いだされることや,白髪のみが唯一,タピエの牙城ともいえるスタドラー画廊と国際美学研究所で個展を開催していることからも明らかであろう(ともに1962年)0 1958 (昭和38)年には,タピエは白髪と単独の契約を結んでいる。白髪によれば,その内容は1年に200号を12枚,スタドラー画廊に送るというもので,翌年には200号を12枚と120号又は100号を12枚に変更となったという。この契約は4年間続いたというから,単純に考えてもこの契約によるものだけで80点以上の白髪の絵画作品が海を渡ったと考えられる。この数がいかに破格で、あったか1971 (昭和46)年1月「アンフォルメルの諸相J(パーリ美術館)吉原治良,白髪(1957年,油彩・カンヴァス,182. OX243. Ocm)や,トウールーズ・エ・ミデイ=ピレ-587

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