⑩ 前期日本美術院における木村武山の業績について研究者:茨城県近代美術館首席学芸員藤本陽子はじめに木村武山の名が近代日本美術史上最も良く知られるのは,明治39年11月の日本美術院五浦移転に際してであろう。この時,岡倉天心の命に従い,五浦に移住した横山大観,下村観山,菱田春草の名に伍して,第四番目の画家として武山の名が登場する。しかし,五浦移住前の武山に関しては,近年の日本美術院に関する詳細かつ綿密な調査研究の成果を以てしでも,暖昧なまま,従来の断片的事象の紹介に終始しており,五浦移転という大転換期に至り,やおら武山が登場する,という観を拭い得ないのが現状である。本稿は,まず木村武山と岡倉天心のかかわりの初めである東京美術学校在学時代に遡り,武山が修学期にどのような成果を得たか,次いで,武山と日本美術院の関わりについて,武山が日本美術院活動に加わった経緯を追い,さらに,日本美術院という組織の中枢である正員となった時期を探り,武山が日本美術院においてどの様な役割を担ったか,という点について,主として文献資料に基づいて検討し,前期日本美術院における木村武山の業績について考察を試みたい。武山と東京美術学校木村武山は,明治9年(1876)7月13日,茨城県西茨城郡北山内村大字箱田弐千弐百拾番地(現在の笠間市箱田)に生まれた。本名は信太郎という。父信義は旧笠間藩士で,維新後は,士族の授産事業として銀行業や生糸産業に携わった。長男の武山は,幼い頃から笠間在住の南画家桜井華陵に師事し十三童武山と款記のある作品が数点確認されている〔図1)。印章には朱文が武山,白文には蛍雪絵暇の二種が使用され,それぞれ拙い作ではあるが,武山の雅号の最も早い使用例となる。地元の小学校を卒業後,武山は上京し,東京府開成中学校に進学している。しかし,それも短期間のことで,明治24年には東京美術学校(現在の東京喜術大学美術学部)に入学した。東京美術学校は明治22年に開校した,唯一の官立美術学校で,第1回入学生には横山大観,下村観山,六角紫水ら,翌年の第3回入学生には菱田春草がいた。武山は第597-
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