鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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4回入学生で,その年,満15歳であった。同校の入学在学退学規則によれば,入学生の年齢は〈涌十六年以上満二十五年以下>(注1)とされており,同期生52名(留年5名を含む)の中で,最年少に属した。因みに観山と春草は16歳,大観は21歳の年の入学となる(注2)。当時の絵画の教師には橋本雅邦,川端玉章,結城正明,狩野友信らがおり,東京美術学校で受験(注3)する生徒の多くは,入学前にいずれかの教師に絵の手ほどきを受けている(注4)。武山も入学に先立ち,川端玉章の画塾天真社に入門し,受験に備えた。同じ頃の玉章門下生に結城素明がいるが,素明は武山よりl年遅れの入学であった。また,同校の修業年限は5年で,入試は勿論のこと,全てにおいて学科よりも実技が優先され,留年や退学者が多く,5年で本科を卒業する生徒は同期入学生の5割に満たないものであった(注5)。武山は明治29年に本科を5年で卒業した。卒業制作としては平家物語を題材とした「高倉帝厳島行幸図」を描いている。その他の在学中の作品としては,明治28年5月の校友会臨時大会の際に開催された展覧会の出品作「遠藤盛遠之固j(一等褒状)がある(注6)。また「連山紅葉爆布の図jC図2)と新案による山水図(注7)C図3)の2作の存在が知られている。この2作は制作された時期も近く,武山の修学過程を知る上で興味深い作品といえる。「連山紅葉曝布の図Jは個人の所蔵作品で,画面右下の款記は武山の雅号の継続を示すものである。箱書に『明治廿五年美校在学中師雅邦先生白雲紅葉山水の図寓H注8) とあるように,明治23年の第3囲内国勧業博覧会に出品された橋本雅邦作「白雲紅樹jを手本とした作だが,忠実な模写作品ではなく,画面の縦横の比率が手本と異なるためからか,多少構図を変えて描いている。一方,山水画は自己の創意工夫によって描く新案の試験の成績品となるが,当時の新案の作品の多くがそうであったように,模倣を脱し切れず,雅邦の「白雲紅樹」と狩野芳崖の「岩石図」の2作の影響が顕著に表れている。芳崖と雅邦の両作は,狩野派の伝統的山水画の技法を継承し,かっ西洋画の遠近法や明暗法を巧みに取入れて新境地を示した作品であり,特に「白雲紅樹」は生徒に与えた影響が大きく,類似の生徒作品が多いことからも,その影響のほどが窺える。それに対し「岩石図」は「白雲紅樹Jに先行して明治20年に描かれ,実験的試みがなされた作品だが,残された回顧談や生徒作品を見る限りにおいて,当時の生徒聞でとりたてて注目を集めたという形跡は認められない。画学生の武山がこの時期に「岩石図Jに着目し,自らの作品に試みたことは評価できるだろう。しかし,以後の武山作品は,1遠藤盛遠之園j,そして卒業制作[高倉帝厳島行幸図」と続き,作画の

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