関心が古典,或いは古画へと移行したことを示している。特に「高倉帝厳島行幸図」は,観山の卒業制作「熊野観花」を想起させるほど,多くの共通点を有し,その影響を見逃すことは出来ない。武山は卒業後,研究科へと進んでいる。在籍2年間の作品には,明治29年秋の日本絵画協会第一回絵画共進会の「賓定卿奮都観月(遷都の月)J(二等褒状),明治31年春の日本絵画協会第四回絵画協会共進会の「春雨J(一等褒状)I秋タJ(一等褒状)があり,それぞれ高い評価を得て,注目される存在であった。この間,明治30年には,東京美術学校が請け負った平泉中尊寺金色堂の修復事業に写手として参加している(注9 )。これは,古社寺保存会による全国の古利殿堂什宝の修理の第I回にあたるもので,2月に着手された。現地に派遣されたのは漆工,彫刻,絵画の3班で,第1固から第4回の入学生で構成されていた。武山が担当したのは,現在でいえば修理前写真に相当する金色堂及び経蔵の宝物類の実写で,武山の他に絵画科同期生の高橋勇と佐藤栄三郎が担当した。現状を正確に写すことが求められる現状模写という性格上,各々の分担箇所は明らかではない。既に天心は大観,観山,春草等,第1固から第3固までの入学生に対しては,帝国博物館が行なった古美術品の模写模刻事業に従事させ,研績を積ませている。そして明治30年に始まる古社寺保存法に伴う中尊寺の修理事業は,武山ら第4回の入学生が実働となる人員構成がなされており,古画模写事業に続く現場育成の場という,次代の生徒に対する天心の指導方針に基づくものと考えられる。そしてこの事業は,天心が東京美術学校を去り,新たに日本美術院を創設してからは,美術院に百|き継がれている。武山の画業の後半生を特徴付けるのは花鳥画と仏画といえるだろう。とくに昭和期は高野山金剛峯寺金堂壁画,次いで郷里笠間の自宅邸内に大日堂を建立し内部〔図4Jの仏画全てを描いている。従来,中尊寺の模写と後半生の仏画制作について関連づける手がかりが無かったが,東京国立博物館にその模写図が保管(注10)されていたことにより,大日堂の中央に置かれている台座の側面を飾る迦陵頻伽の模様や三鈷杵文が,用材の違いはあるものの,中尊寺の経蔵須弥壇の装飾とほぼ一致することが判明した。そしてまた,大日堂の厨子に描かれた弁財天〔図5Jは,金剛峯寺金堂背面壁画〔図6Jに描かれたものと同一であり,いずれも東京美術学校所蔵「浄瑠璃寺吉祥天厨子絵」を手本に描いたものと考えられる。こうしたことのみで昭和期の武山599
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