鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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26名で,その中で最も多いのが絵画で,長老格の橋本雅邦,松本楓湖,それに次ぐ立の仏画制作の全てを推し量るには無理があるだろうが,武山後半生の仏画の原点は,東京美術学校時代の模写の経験にあるということは明らかであろう。日本美術院における武山日本美術院は明治31年10月,開院式を挙行し,創立展を開いた。院の組織は正員,副員,研究会員,賛助会員,特別賛助会員,名誉賛助会員で構成され,正副員が院の事業を担当し,各々の賛助会員は,物品あるいは金品による援助者,もしくは学芸技術による援助者となる。院の主たる事業は展覧会の開催,美術及び美術工芸品の研究と制作等があり,その他に機関誌として『日本美術』の刊行があった。院の経費は正員が負担し,役員となれるのは正員であり,しかも正員は無報酬で,事業による必要経費は美術院から支給されるというシステムとなっており,正に正員によって成り立つ組織構成であった。創立時に正員として名を連ねたのは,絵画,彫刻,漆工,金工の作家を中心とする場の尾形月耕,そして東京美術学校以来の天心の直系となる横山大観,下村観山,西郷孤月,菱田春草,その他日本青年絵画協会系の寺崎贋業,小堀鞘音,山田敬中の10名であった。この顔ぶれは,楓湖と月耕を除く全員が明治31年3月の東京美術学校騒動の折の連快辞職者であり(注11),官職を辞して日本美術院創設に加わった面々であった。記念すべき第l回展は独自の主催ではなく,第五回日本絵画協会第一回日本美術院連合絵画共進会と,その名称が示すように絵画協会との連合展として開催された。辞職騒動から僅か半年という慌ただしい創立展開催であったが,八百余点という多数の出品があり,大観の「屈原」や観山の「闇維」が話題となった。雅邦と楓湖が審査に当たり,受賞者は銀牌が大観,観山,康業,月耕の正員4人,銅牌は輔音,孤月,春草,敬忠,村田丹陵,川合玉堂,竹内棲鳳,そして武山であった。銀牌を受賞した4人は美術院の正員であり,次回展の審査員となっている。また,武山ら銅牌受賞者を見ると,京都在住の棲鳳は,後に天心が自ら出向いて美術院への参加を促した人物であり,武山を除く他の6名は,美術院正員か次回展の審査員となっている。この時,武山の作品は「野遺jであったが,題名のみで図様の確認はできていない。作品評によれば男女の貴人が野辺で娯遊する様で,土佐風ながら西洋画の描法を巧みに採り入れた大作で場中屈指の作であったという。600

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