鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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東京美術学校研究科を修了した武山は,日本美術院創立展で銅牌という高い評価を得た。しかし,武山はそのまま画業に専念するのではなく,同年12月,一年志願兵として近衛歩兵第二連隊に入隊している。こうした入隊は,当時の東京美術学校卒業生の進路としては,別段特殊なことではなかった(注12)。そして軍務のためであろうか,武山は翌年,ほほ1年間というものは制作活動を行なってはおらず,明治33年2月の絵画研究会からの再開となる。1年間のブランクではあったが,4月の第八回日本絵画協会第三回日本美術院連合絵画共進会には「観花JI火難(七難のー)JI夏月」「秋の野辺JI秋の夕暮JI冬の海辺JI林和靖」の7点を出品し,I林和靖」で創立展に続き銅牌を受賞した。さらに5月には天心に同行し,大観,観山,春草,孤月,川合玉堂という,正員や共進会審査員と共に,古社寺取調をかねて飛騨地方へ出掛けた。また同年8月に開催された日本美術院図面教授法講習会では,天心,雅邦,観山,春草,孤月ら正員と共に,講師として指導に当たった。以上のように,除隊してすぐに美術院で活動を再開した武山は,その後正員とほぼ同じ行動をとっている。しかしながら,武山が正員であったか否かは明確ではない。機関誌である『日本美術』における構成員の異動は,明治32年1月号に久保田米悟,明治34年8月号に大橋雅彦ら3名,同年9月号に川端玉章ら東京美術学校教員10名,という都合3回の正員加入が記されるに留まる。また,開院時の武山の立場に言及しているものとしては,昭和19年に刊行された『日本美術院史.1(注目)がある。それによれば,武山は開院に前後して入り,副員の中でも正員に準ぜられる立場であったとしている。また,彫刻家の藤井浩祐の回想(注14)によれば,大観,観山,春草,孤月,贋業,そして武山の名を挙げて,谷中の八軒屋に住んでいたとしている。八軒屋というのは,開院間もなく完成した日本美術院の舎宅で,俗に谷中の八軒屋と呼ばれた。当初,八軒屋に住んでいたのは,大観,観山,春草,孤月,贋業,朝音の6人と阿部覚弥,剣持忠四郎の正員たちであり,絵画部は,雅邦,楓湖,月耕の年長者三名を除く在京の正員6名全て(注15)が八軒屋の住人であった。つまり八軒屋に住むのは正員だけということになる。その八軒屋に変化が生じたのは明治33年のことである。8月に鞠音が,次いで、暮れには慶業が,それぞれ居を他へと移した。また,孤月もこの頃既に人間関係の車しみから,徐々に日本美術院と距離を置いていった。こうした動きに伴い武山の八軒屋での生活が始まる訳だが,藤井の記す6人が共に住んでいた期間は,明治33年の8月以降の数ヶ月間と限られる。武山が八軒屋の住人であった-601-

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