ことに関しては,明治36年4月に誕生した長女の出生地からいって,疑問の余地の無いことであるが,藤井は八軒屋が建つ前から付近に住んで、いた人物であり,単に交遊のあった人物名を挙げたか,或いは回顧談にありがちな記憶の混乱の可能性も考えられ,入居の時期を特定する決め手とは成り得ない。さて,正員の主たる活動は作品の制作と技芸の指導であり,明治32年10月に院内の研究組織として絵画研究会を発足させていた。これは毎月課題を決めて,各自が応作を持ち寄り,自評互評を行なうというものであり,正副員相互の研鎮の場となった。明治33年11月には研究会の規則を改め,絵画互評会と絵画研究会とに分けた。絵画互評会は主に改正前の研究会のメンバーによるものであり,いわば幹部によって構成された。一方,絵画研究会は〈青年画家の研究上達を期するの目的>(注16)で設置され,主に若手育成の場となった。それぞれの会の発起人は18名で,楓湖を除く在京の絵画部正員8名が名を連ねたが,そこに武山の名は記されていない。明治33年以後の日本美術院における武山の行動で,大観,観山,春草ら正員と大きく異なるのは,改正後の絵画研究会との係わりといえる。改正後の絵画研究会は明治33年12月から明治36年7月まで,計24回(注17)開催された。絵画互評会と異なり,院外の者でも推薦により出品が可能であり,また,天心の指導を直に受けることが出来る又とない機会であったためか,青年画家の参加は多く,活発な運営がなされた。しかし,設置の趣旨が若手育成の場ということからか,観山はl回,大観と春草は2回(同時期出品),孤月と康業は無しというように,正員の出品はほとんど無に等しい。一方,武山は第l固から批評委員として参加し,14回の出品を数える。また,この間,絵画研究会とは日をずらして開催(同日も有り)された絵画互評会の出品状況(注18)は,大観9回,観山3回,春草11回,孤月4回,贋業10回,武山10回と,武山のみが双方に出品を続けたことが判る。武山が正員となったのは,明治33年とする説(注19)がある。確かに,連合絵画共進会や,日本美術院における事業など,表立つた武山の業績は,何等正員と変わることはない。しかしながら,院内絵画研究会が設置された時に,発起人としてその名は無く,しかも批評員に推されたとはいえー出品者という武山の立場から判断すれば,明治33年12月の研究会発足当時,武山は正員ではなかったと考えるのが妥当ではないだろうか。その後,武山は明治36年5月の絵画研究会まで出品を続けているが,武山を正員とする最も早い記述は,{本院槍董研究科員一同は,正員木村武山氏の指導の下602
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