鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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に,御岳方面ヘ研究旅行を試みたり〉という,明治36年6月の『日本美術』の記事である。そして,明治34年からここに至るまで,武山が正員となったことを示す他の文献は見出せなかった。しかしながら,その間,武山が正員ではなかったというよりむしろ,ある時点で正員となったが,研究会の運営上,或いは日本美術院の組織機構の変容と弱体化という状況下で,武山の出品が継続された,と考えたい。絵画研究会の第l固から指導的立場で参加していた武山は,研究会を継続する過程において,中心的役割を果たしていた。その発言内容からもそのことは裏付けられるだろう。美術院は開院当初から,伝統を受け継ぐ新時代日本画の創始を心掛け,実験的絵画を積極的に推進してきた。明治33年を頂点とする醸臨体(没線主彩)による描法はその象徴であり,措法のみならず意識の大変革というべきものであった。しかし,画家の意図することと実際の描法とでは大きな隔たりがあり,改めるべき多くの問題を字むものであった。そのため,美術愛好家ばかりか,穏健な日本絵画協会系の画家たちも美術院と距離を置く関係となっていった。また,なによりも指導者である天心自身が開院当初の情熱が薄れていったということが大きく,明治34年から35年へと,日本美術院の組織の変容と弱体化は度を加えていった。そうした状況下で,武山は実に自然な形で青年画家たちの指導的役割を果たし続けた。明治36年には大観,観山,春草が海外に出掛け,日本美術院を不在にしている間,2月に絵画互評会が休止となったにもかかわらず,絵画研究会は7月まで開催を続け,前述のように武山の指導のもとで研究旅行まで行なっていたのである。時間の許す限り絵画研究会に参加して総評を行なっていた天心は,絵画研究会での武山の実績を十分に知る立場にあった。五浦移転を目前にした明治39年の日本美術院の規則改正に際して,武山を教育主任とするのに,天心に迷いは無かったであろう。おわりに明治39年11月,大観,観山,春草,武山の4人は,家族を伴い,茨城県の最北端,大意町五浦へと移り住む。いわゆる日本美術院の五浦時代となる。以後の武山の業績は,日本美術院正員という明確な立場があり,多くの文献に記されて,容易にその動向を知ることが出来る。五浦での武山は「阿房劫火Ji祇王祇女jなど,卒業制作以来のテーマである平家物語を中心とする歴史画作品を描き続けた。しかし,五浦を経て,再興美術院時代とな-603-

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