鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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注(1) r東京美術皐校一覧』従明治廿四年至明治廿五年,17頁の2干重カfあった績J(図3J 伯)4月に雅邦と鞠音は依願免官。大観,孤月,麿業は懲戒免官。敬中と春草は依願り,春草,天心を失った五浦の画家たちの制作環境は大きく変化し,独自の道を歩みはじめた。大観が,自らが求める絵を描き続けたのに対し,武山は,求められる絵を描き続けたといわざるを得ない。(2) 在籍生徒全員の生年の把握ができていないため,判明している生徒の比較から得た結果となる。第l回入学生は,20歳以上の生徒が多く,規則の上限となる25歳の生徒が2人いた(3) 東京美術学校受験には美術学校で試験を受ける者と,各府県庁特別選抜による者(4) 大観と春草は結城正明,西郷孤月は狩野友信,観山は雅邦門下だが受験を前提とした師事では無い(5) 明治23年の入学生は44名中15名,同24年入学生は47名中23名が,5年で卒業している(6) r錦巷雑綴』東京美術学校校友曾,1895年6月,30頁(7) 東京塞術大学大学美術館所蔵「学生制作品476明治26年7月絵画科第l年試業成(8) 箱書の款記は昭和期のものと推定する(9) r錦巷雑綴』東京美術学校校友曾,1898年2月,182~ 183頁同加島勝「中尊寺金色堂須弥壇の現状と明治の模写図Jr東京国立博物館紀要j30号,解嘱。観山のみが6月に依願免官と,文部省の対応は異なっていた同武山と同期の日本画科の卒業生は18名であり,その進路は,6名が自営,5名がl年志願兵,4名が教員,武山等3名が研究科であった(13) 粛藤隆三著『日本美術院史』創元社,1944年63頁(14) I思ひ浮ぶま'Jr巽],1929年5月,13頁岡山田敬中は明治31年12月に天心の推薦を受けて金沢工業学校の教諭として同地に赴任1995年-604-

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