る使命をもっという。ただ,他の絵柄には十六童子として善財童子(乙護童子)を加筆して成りたっている画面もあり,偽教であるこの経説にもとづく図像化とは単純に解釈できないものもある。日本の弁才天は,竹生島(近江)・金華山(陸前)・天川・宮島(安芸)・江の島(相模)の五大弁天を代表とするがこの中でも天川の弁才天は古いわりには,絵画化される例がそれほど多くはない。次に奈良・能満院に伝来する二種の作例をみよう。伝詫間法眼筆と伝える保存の良い画像。中尊は弁才天前述の親王院本と類似する部分を含む三面十皆の立像で,一蛇人身坐像(三尊)や讃仰する天女四尊の図像は同じ。ただし向って右側の縦八尊の童子と左側の縦八尊の童子は異なり,白狐・蛇をしたがえる半裸の男女神像四体と最下辺の供養者をつかさどる赤色・黒色の男神坐像二体は,親王院本・石山寺本いずれにも見出しえない異形の像容である。狐と稲のモチーフを考えると,あるいは宇賀神と稲荷神の習合形態の具現がこれらの図像の中にかくされているのかもしれない。画面上方は他本と同様,火焔宝珠をいただく三山が描かれる。室町時代(天文十五年銘=1546)は,裏面の墨書から南都吐田座の絵仏師琳賢が天文十五年に描いたものである。全体の画風は濃彩で金泥を多用するが,室町仏画の典型的な趣を伝えている。中尊の弁才天は,三面十曹の頭蛇人身像(立像)である。図像学的にも(A)と同形で,特に足下で支える三天女は水天と火天だという解釈がある。そして特に童子群の最上の二尊は,妙見菩薩と考えられれている。そして左右縦の七童子は(A)とも若干違う。特に下辺は鶴や馬や白狐・蛇などに乗る。最下辺は岩間に波がたつが,その波は「天lllJを意識して描写しているとされる。上辺三山は弥山を中心に金峰山と大峰山を描く。彩色の特徴は(A)も親王院本も中尊は白色系であるが,(B)は緑色である。このように(B)の図像は琳賢の意楽が細部とも支配していると考えられる。以上のように『天川弁才天長茶羅』が作画された時期や地域を考えると,一つは南北朝・室町時代であり,もう一つは神仏習合が可能になる奈良(南都)である。とくに伊勢信仰・両部神道とその信仰が整った天川神社周辺は,特異な別尊憂茶羅を生み出す場所として注目する必要がある。(A) r天川弁才天蔓茶羅』絹本着色・縦95.7cm,横39.5cm・室町時代(十五世紀)は,(B) 同じく奈良・能満院蔵『天川弁才天蔓茶羅』絹本着色・縦97.7cm,横40.2cm'-52
元のページ ../index.html#62