pnu (1) I黒人」としての日本人像から,1吊り目jの身体像の形成へ2 I吊り目Jイメージの構築欧米では日本人やアジア人一般に対し,歴史的に一貫して「吊り目」の身体像を当てはめてきたわけではない。『絵入りロンドンニュース』や『外国新聞に見る日本.J,『外人の見た幕末明治初期日本圃曾』などは,19世紀の西洋社会における他者としての日本人像を提供しているが,興味深いのは,絵の描き手と同じ「西洋人」たちといっしょに「日本人」が描かれた時の表象である。彼ら「西洋人」から身体的特徴を区別して描かれることによって,1日本人J像は創出され固定化され,同時に「西洋人j像も再創造されていく。これらの資料を見ると,19世紀半ばの「日本人」像は,まだ吊り目に固定化されてはいない。差異は,1目」ではなく,1色」にあり,白黒図版においては,1日本人jは黒人として描かれていることが分かる。たとえば,1860年6月2日の『フランク・レスリーズ・イラストレイテッド・ニュースペーパー』は,日本の使節団とカス長官との会談の模様をイラストで掲載しているが,画面左側を占める日本人の一行は,すべて顔を黒く描かれている〔図5J。後方にいる白人の顔も白く描かれていることから,この日本人の表象が照明や位置関係によるものではなく,1白人Jとは異なる人種として識別するための指標であることが分析できょう。黒人として日本人を識別する表象パターンは,19世紀半ばにはこの他にも数多く見られる。『ニューヨーク・タイムズj(1860年6月20日)は,Iニューヨークの日本人一一日本人を見ょうとホテルへ人の波」の記事を伝えているが,ニューヨークを訪問中だった日本人一行の一員,トミーを一目見ょうとする白人の紳士淑女に取り固まれるイラストも,トミーの顔だけを黒く塗ることによって,差別化していることが分かる〔図6J。あるいは,rフランク・レスリーズ・イラストレイテッド・ニュースペーパーj(1860 年5月26日)が伝える「ロアノーク号での日本使節歓迎式」のイラストも,日本使節全員を黒く描いているのが見て取れる〔図7J。このような黒人化した日本人の表象は,北米においてだけ展開されたものではない。東田雅博の研究によれば,1841年に創刊され1992年に廃刊されるまで,イギリス社会に大きな影響力を及ぼした週刊誌『パンチJに,最初に登場する「日本人Jも黒人として描かれているのである(注5)0 1852年22巻に初めて登場する「日本人jは,船で日本に乗り込んできたアメリカ人を前にして,開国の交渉をしている。「日本人」
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