美術館は現代美術の評価という枠組みの中では権威であるが,そのような権威は自治体の問題意識(これは実に広範でもあるが)とは別の次元の問題だ,という認識があったようだ。作家は美術館の主催する展覧会において評価され,美術ジャーナリズムにおいて評価され,マーケットにおいては有力画廊や美術館によって評価される。その中でも美術館の占める位置は,物理的にも経済的にも大規模な展覧会を開催できる(その結果マスコミにも取り上げられる),作品収集の分野でも強大な立場にあり,それは良くも悪くも権力的といってよい。このような現代の美術評価システムの中にあって,美術館以外からの評価モーメントの存在は必要であり重要である。そのモーメントは美術館の必要以上の権力化を牽制することにつながるし,美術館が自らを相対化できる契機ともなるからである。もちろん,美術館の政治権力を含むあらゆる権力からの独立は不可欠である。特にドイツにおいてはナチス政権が指定した「退廃芸術家jの作品が美術館から撤収され,廃棄された苦い経験がある。日本においても第二次世界大戦では大政翼賛体制のもとで,芸術の創造の自由と発表(展示)の自由が奪われた。このような歴史の教訓に学ぶことは当然のことであるし,現在においてもその脅威が全くないというわけではなしかし,独占的な権力は必ず行きづまる。私はこのことに美術館はもっと敏感になるべきだと思う。今回のIBaLANCE2000Jはその意図したテーマとは別に,美術館と自治体との,もっといえば美術館と市民とのバランスという問題にまで言及したといえよう。いや,あるいはこの展覧会のテーマは無意識の内に,美術館もまぎれもなく「人間,自然,技術」の中のバランスの内に存在するものである,というメッセージを含んでいたのかも知れない。確かに現代においては,美術館という存在はこれらの“生態系"の中にバランスを保ちながら存在することを求められているのではないか。それは決して美術館の外部からの理不尽な圧力に屈するということではなく,市民社会という生態系の中で他者の生息環境に配慮し,それらとの共存の道を模索することが求められているのである。結論として,この展覧会は,オフ・ミュージアムからの美術館とその制度に対する批判となり得ていたというべきである。\;'0 629
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