鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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しミ。柳瀬正夢と古賀春江の関係は,直接的交流があったかどうか,事実関係は今のところ認められないが,古賀は1895年生まれで九州・久留米の出身,柳瀬は1900年生まれで,11歳で門司に移り住み,九州の洋画壇でも活動をしていたことから,お互いの存在は認知していた可能性はある。また,1920年代前半の大正期新興美術運動の中で,古賀が「アクション」に参加したこと,柳瀬は「未来派美術協会」および「マヴォ」に加わっていたことから,非常に近い位置にいたことは明かである。両者が同時代に洋画壇で活躍していたこと,また詩と絵画のコラボレーション,竹久夢二への共感など,いくつかの共通項を持ちながら,作品の上では全く異なる展開を見せたことは非常に興味深い。両者の活動の軌跡を追いながら,古賀春江の1929年以降に現れた,複数のイメージを組み合わせた作品が生まれた背景を分析してみた2.大正期新興美術運動に参加するまでの道のり1912年夏過ぎ,当時17歳だ、った古賀春江は,周囲の反対を押し切って故郷久留米から上京する。そして,すぐに太平洋画会研究所(注4)に入所し,同年11月の妙義山写生旅行に参加するが,そのときのスケッチブックは風景などの写生よりも短歌や詩で埋められていたという(注5)。並行して,日本水彩画会研究所(注6)にも入所した古賀は,1913年,両研究所がそれぞれ主催する展覧会に水彩画が相次いで入選L,翌年には光風会展に入選するなど,順調に画家としてのスタートを切った。しかしながら,その後10年近く安定した評価は得られず,いわば修行時代を過ごすが,この間はほとんとミ水彩画専門に描き,夫人をモデルに描いた〈婦人像〉や〈竹林〉など,透明感のある色彩で,色の対比によって立体感を表現したセザンヌ風の作品を残している。1921年,本格的に油彩画をはじめた古賀は,その翌年,何の変哲もない風景を,意表を突く斬新な構図で描いた〈二階より>c図2)と,明快な色彩で仏教的主題に取り組んだ〈埋葬>c図3)を制作した。いずれも当時日本の画壇に多大な影響をもたらしていたキュピスム的形態処理を部分的に取り入れた,新鮮な画面を作り出しており,その年の第9回三科展に入選し,二科賞を受賞する。この二科展の直後,中川紀元,矢部友衛,神原泰らは,前衛グループ「アクション」を結成する。その際,特に〈埋葬〉を好意的に評価していた(注7)中川紀元の呼びかけで,このグループの結成に632

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