鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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古賀も参加することになるのである。こうして古賀は,1922年にようやく画壇デビューを果たすと同時に,大正期新興美術運動の中で生まれた「アクション」での活動を開始することとなる。一方,柳瀬正夢はこの頃までにどのような道のりをたと守っていたのだろうか。1900年,松山市に生まれた柳瀬正夢は,11歳で父親とともに門司へ移り住むが,洋画家を志し14歳で上京する。古賀春江の上京は1912年であるから,その2年後に柳瀬が上京することになる。柳瀬は東京美術学校入学を希望していたが,すでに試験の機を逸していたため,日本水彩画研究所に入所し,その後日本美術院研究所で学ぶ。この時期,古賀も日本水彩画研究所に入所しており,ここで二人が出会っていた可能性は高い(注8)。しかし,柳瀬が同研究所で学んだのはほんの短期間であったこともあって,二人の交流が深まった形跡は認められない。この頃の柳瀬は,セザンヌやゴッホの影響を強く受けたと思われる水彩画や油彩画を数多く残しているが,その一方で,岸田劉生ら草土社の作風に感化された自画像も描いている。古賀春江は,1918年11月15日付の松田実宛書簡に「一体に今の画界の若手連にはセザンヌか岸田風かの影響のない者はゐないといってい、と思ひますJ(注の若い画家たちが競って摂取しようとしていたものに,少年柳瀬もすばやく反応していたことがわかる。しかし,それらの作品は単なる表面的な模倣にとどまらず,いずれも14~15歳の作品とは思えないほどの力量を発揮している。そして,長い修行時代を過ごしていた古賀とは対照的に,柳瀬は15歳で〈河と降る光と}(油彩)C図4Jが第二回再興院展に入選し,早くも画壇デピューを果たすこととなる。それからはたびたび門司へ帰郷し,地元の支援者の協力によって毎年個展を開催するなど,洋画家としての道を歩み始めるのである。恒例となった門司での個展出品のためでもあったのか,柳瀬は10代で膨大な作品を制作していく。その過程で,17歳頃からはキュピスム的形体把握による作品が顕著に現れるようになり,また竹久夢二に感化された甘美な女性像や,ムンクやゴッホを思わせるような絵図と詩を組み合わせた自画自装の詩画集を制作するなど,意欲的でエネルギッシュな創作活動を展開した。そんな中,九州で売文社社員・松本文雄と出会い「絵は社会主義の時代には亡びるよ。だからせいぜい労働し給え。J(注10)と衝撃的な言葉を浴びせられた柳瀬は,これ以後,社会主義と絵画の狭間での葛藤が始まっ9 )と記しており,このような作風が画壇に氾濫していた状況を物語っている。当時-633

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