鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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たと自叙伝(注11)の中で、語っているが,これはその後の柳瀬の活動を方向付ける,非常に大きな出来事であった。その後柳瀬は,I未来派絵画の中に於ける明快でダイナミックな社会的要素を追求しようと試みJ(注12),1920年9月,未来派美術協会結成に参加する。そして,しばらくは風景画に大胆なデフォルメを加えて,流動する曲線を主要素としたダイナミックで動きのある作品を作り出し,さらには1922年に未来派美術協会第3回展(三科インデベンデント展)やその翌年の未来派習作展に出品した〈仮睡}[図5)では,柳瀬色ともいえる赤紫色を基調として,斜線と陰影の組み合わせにより,浅い奥行きの中に複雑に交錯する色面を構成した密度の高い表現を実現させている。その後,1923年には同会メンバーの尾形亀之助らにドイツから帰朝したばかりの村山知義を加えた5名で「マヴォ」を結成し,{五月の朝と朝飯前の私}[図6)に代表されるような抽象表現を試みた。その一方で、,1922~24年には,1915~ 18年頃の作品に特徴的に現れていた点描で,人物や風景を描いたものも並行して制作している。「未来派美術協会Jゃ「マヴォ」などの新興美術運動に参加しながらも,芸術的主張への共鳴というよりは,あくまでも社会主義思想を核とした運動への変革を求めていた柳瀬は,周囲との違和感と失望を感じ,表現上にもその迷いを見せつつ,油彩画での活動を休止するのである。こうして,古賀春江がようやく画壇デビューを果たし,同時に「アクション」参加によって「喜ばしき船出jを語い始めた頃(注13),柳瀬正夢は「社会主義と絵画との狭間での葛藤jの末,油彩画から離れていく。そして古賀も短命であった「アクション」での活動の後,自らの身をどこに置き,絵画にどう取り組んでいくかを選んでいくことになるのである。3.古賀春江のグラフイズム大正期新興美術運動の中で,古賀春江が参加した「アクションjを含む数々の前衛グループは短期間の内に離合集散を繰り返し,ついには空中分解してしまう。その後,古賀は再び二科会の傘下に戻り,パウル・クレーの影響が指摘される童画風のみずみずしい作品を描くようになる。しかしながら,1929年に再び古賀はその画風を変遷させ,いわゆる日本のシュールレアリスムの先駆的表現として位置付けられてきた,フォト・モンタージュの手法を応用した斬新な画風を生み出していた。-634-

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