1924年の油彩画を最後に,完全に印刷メディアでの創作活動に方向性を変えたかに柳瀬は,20年代前半で,このような西洋の急進的な様式を摂取しながら,独自の画風を確立していく一方で、,長谷川如是閑をはじめとする第一線のジャーナリストと交友することによって,柳瀬自身もジャーナリストとしての目を早くから養っていた。そして柳瀬の社会主義への傾倒は,さらにロシア構成主義が移入されるに伴い,グラフイツクの分野で一気に表出した。絵画や彫刻をブルジョワ芸術として否定し,工業生産物の使用と杜会的効用性を主張したロシア構成主義は,特に村山知義らと結成した「マヴォjやそれに引き続き盛り上がりを見せたプロレタリア美術運動における表現言語となり,そして柳瀬はそれを巧みに駆使し,r種蒔く人Jr文芸戦線H読売新聞』などの挿絵や風刺画,装丁分野にも反映していったのである。そして20年代後半から洋画家としての活動を休止し,本格的にプロレタリア芸術運動における重要なグラフイック・デザイナーとしての活動に専念することとなる。思われていた柳瀬であるが,今回の調査で発見した3点の作品は,その考えに検討を迫る内容のものであった。その作品は,{(無題rn c図15),{郊外の大地主さん}C図16), {(無題田nc図17)の3点である。{(無題rnは,様々な大きさの四角い洋紙を15号程度の大きさに張り合わせ,無産者新聞62号(1926年12月25日)に掲載された風刺画「不景気の内幕」に酷似した図を,グワッシュで描いたものである。左下には「正夢」と,1夢jという字をくずした「いろは」のサインを入れており,印刷物の下絵として描かれたというよりも,一つの作品として完成させたものと判断される。〈郊外の大地主さん〉は,{(無題rnの修復の過程で,その下から発見された。この作品の上に袋張りの状態で{(無題rnが張り込まれており,意図的に覆い隠したのか,真相は不明で、あるが,右下には「正夢jと「いろはjのサインと11926.1 Jという年記がしっかりと書き込まれている。タイトルは袋張りにされた裏側に墨で書かれていた。支持体は,原稿の催促など柳瀬宛に届いた電報用紙を張り合わせたもので,中心には強烈な形相のブルジョアが描かれ,その周囲に現金や書籍,カーテンなど様々なものが重なり合うように描かれている。張り合わせた電報用紙の表面に水彩絵の具で描いているため,電報の文字がそのまま透けて見える。1926年1月7-15日に日本橋・三越呉服屈で開催された「日本漫画会第3回展覧会出品目録」に同じタイトルのものがあることから,恐らくこの出品作であると思われる(注15)。-637-
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