H無題皿nも〈郊外の大地主さん〉同様,左下に「正夢」と「いろは」のサインと11926. 1 Jという年記が入っており,タイトルは記されていなかったが,図柄から判断すると,前述の「日本漫画会第3回展覧会出品目録jにある〈首が手をつなぐ〉に該当する可能性が高い。支持体は様々な印刷物を張り合わせたものであるが,中には外国の紙幣,柳瀬自身の新聞記者辞令書もある。そこに,多種に渡る会社の社債募集の文字を,まるで新聞広告のように帯状にいくつも書き込み,さらに,ろくろ首のような人体図が複数重なり合っている。当時の社会情勢を反映した主題であり,幅173cmにも及ぶ大きさから,柳瀬の並々ならぬ意欲が感じられる。この時期の柳瀬の活動については,柳瀬信明氏の詳細な年譜において明らかにされているが,この種の作品そのものが発見されたのは初めてである。この3点の描かれている内容は,いずれもいわゆる風刺画である。制作意図から察すれば,当然印刷物として大量生産された方がより効果的であるにもかかわらず,あえて世の中に1点しか存在しない作品として制作し,しかも展覧会に出品していたとすれば,それは柳瀬の複製芸術をめぐる強い意思の表明ともいえるだろう。これらの作品が発見されたことによって推察できることは,印刷物という大量生産されるものの創作においても,その芸術性を重んじるという柳瀬の姿勢である。複製芸術において常に付いてまわるこの問題を,柳瀬自身,考えていたに違いない。5.結び古賀春江と柳瀬正夢。画家としてのスタートから,大正期新興美術運動への参加までは,比較的類似した道のりをたどったかのように思われた。しかし,その後の展開は,1グラフイズム」という言葉をキーワードに比較するならば,まったく反対のベクトルを示す結果となっているといわざるを得ない。14歳からその非凡な才能を発揮し,洋画家としての力量は同時代の画家の中でもかなりの高いレベルを持っていたにも関わらず,社会主義思想への傾倒から,芸術が社会に対してどのような役割を果すべきかという命題を常に考えつづけ,結果的に油絵の筆を置き,大衆にある種のメッセージを伝達するために風刺漫画やポスターなど,印刷メディアでの仕事に専念した柳瀬正夢。しかしながら,印刷にまわす原画をことのほか大切にしていた柳瀬は,その原画を必ず返却してもらい,自ら保管していた。自分の手で生み出したものは,たとえ印刷物の原画であっても,作品としての価値を
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