phU 円くuQU 7王(1) 山田諭「日本モダニズム絵画の潮流(1928~1935) J r日本のシュールレアリスム(2) 大谷省吾「超現実主義と機械主義のはざまで一古賀春江,阿部金剛,東郷青鬼」(3) 速水豊「古賀春江の超現実主義絵画と同時代のイメージJr美術史.]137号1995 (4) 同研究所は当時下谷区谷中真島町にあり,校長中村不折をはじめ,満谷国四郎,(5) r古賀春江.](春鳥会1934年)所収の「画歴Jによる。見出していたのだろう。3点の新発見作品は,それを裏付けるかのように,風刺的内容を,コラージュを多用した唯一の作品として作成し,展覧会という形で発表することによって,その芸術性を主張するものであった。一方,古賀春江は一時的に「アクションjや「一九三0年協会」に参加するなど,権威化されつつあった二科会の体質に疑問を抱きつつも,常に二科展を作品の発表の場として活動を続けてきた。古賀春江が西洋絵画の移植に力を注いだ1920年代は,印刷技術の発達とともに,ポスターなどの広告美術が世に盛んに送り出され,また科学やファッションなどのグラフ雑誌も急速に氾濫した時代でもあった。それは古賀の目にも非常に斬新なものとして映ったことは言うまでもなく,そして人々が西洋絵画に学びつつ,その単なる模倣への疑問を強めていった頃,やはり新たな展開を求めて古賀は,印刷物を生み出す立場へと活動の場を変えていった柳瀬とは逆に,自らの絵画の素材として印刷物上の斬新なイメージを取り入れることを実行したといえるだろ柳瀬正夢のグラフイツクへの取り組みと比較してみると,古賀春江のグラフイツクとの関わり方がより浮き彫りになった。古賀は,セザンヌやロートやクレーの様式を取り入れたのと同様に,ポスターやグラフ雑誌のイメージを取り入れたのである。つまり,古賀春江のめまぐるしい作風の変選は,古賀が求めたイメージの源泉の変遷ともいえるだろう。1929年以降の「ポスター風絵画jは,このような古賀独自のグラフイズムによって生まれたのではないだろうか。1925-1945.]展カタログ名古屋市美術館1990年ほか『妻叢.]11号1995年3月吉田博,石川寅治らが指導にあたっていた。つ。年3月
元のページ ../index.html#649