(6) 当時小石川区水道端にあった同研究所では,石井柏亭,白滝幾之助,丸山晩震ら(7) 中川紀元は『中央美術j(1922年10月号)で次のように賞している。「古賀春江氏の(8) 日本水彩画研究所における古賀春江と柳瀬正夢の避遁の可能性については,五十(9) r写実と空想J中央公論美術出版1984年。0)1柳瀬正夢自叙伝JrユウモアJ第2巻第2号1927年(11) (4)に同じ(12) (4)に同じ(13) 1アクション」の中心的存在であった神原泰の『新しき時代の精神に送るj(イデが指導者であった。古賀は,研究所の先輩である小山周次,赤城泰静,河上左京,寺田季一,望月省三らと親交を深めていった。『埋葬Jに色々教へられました。めいめいの人物の姿勢の表情も,人物の組合せも,背景の木立もしっくり出来てゐる上に,画面全体の朱と黒との詰調もい、効果を挙げてゐる」殿利治11研究所だよりJから一「アマチュア=画家jと美術雑誌読者の世界一j(rユリイカ』青土社1999年6月)に述べられている。ア書院1923年7月)に対し,古賀は「喜ばしき船出JOみづゑj229号1924年3月)と題した詩を送り「アクション」精神を讃えた。凶古川智次『古賀春江』至文堂1976年同この出品歴については柳瀬信明氏より重要なご教示をいただいた。640
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