鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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④ 中国甘粛省における5世紀前半の仏教美術に関する調査研究一一特に北涼石塔の構成原理について一一研究者:奈良国立博物館研究員稲本泰生439年の北涼討伐によって華北の統ーを達成した北貌の太武帝は,涼州(以下仮に,姑戚=現在の武威という狭義の呼称、として用いる)の三万余家を平城に強制移住させたcw親書』世祖紀)。この際に禅観の達人として西秦・北涼の治下で活躍し,のちに平城で崇仏の皇太子拓政晃の師となった玄高,平城で道人統となった師賢,雲間石窟の造営を指導した沙門統曇曜らの傑僧も涼州から居を移したと考えられるが,彼らを中心とする勢力のもたらした涼州の先進的な仏教文化は,廃仏による数年のブランクを挟んで452年の北貌の復仏後の平城において急浮上し,460年から造営が行われた雲岡石窟に代表される同地の仏教丈化の骨格を形成したとみられる。『親書』釈老志の「太延中,涼州平,徒其国人於京邑,沙門仏事皆倶東,象教弥増実。」という記載は誇張ぬきで史実に基づいていると思われ,それゆえ中国仏教美術史上巨大な意義をもっ雲岡石窟の性格を理解する上でも,中国と西域の文化交流史上,扇の要のような役割を果たした涼州,より広くいえば甘粛地方における5世紀前半の仏教美術の状況を理解することは不可欠な作業であると考える。本調査研究はかかる意図に基づいて計画され,甘粛ならびに隣接する新彊地区にて石窟寺院を中心に当該時代の仏教関連の文物を調査した。しかしながら5世紀前半に遡るこの地域の現存作例は確実な資料に乏しいため,それらに対する包括的検討を加える前段階として,本報告ではまず,その中で確実な年紀を有する貴重な作例であり,重要かつ多様な問題点を含んでいると思われる所謂北涼石塔について若干の考察を行いたい。北涼石塔は酒泉・敦煙出土のもの(うち紀年銘のあるものは420年代が4点,30年代が2点)に北涼滅亡後に成立したj且渠氏の亡命王朝,温渠氏高昌国で制作されたトルファン出土の二例(ベルリン・インド美術館蔵)を加えると計十数基の遣例が知られる。この石塔群は致損したものを含み,また若干の例外はあるが,八角形の基壇(各面に八卦を付した天部形像をおく)上に円形の鼓胴部(周囲に十二支縁起の経文を刻す),覆鉢部(周囲に過去七仏と弥勅菩薩の像を配する),相輪部を重ねる構成を基本としており,その内容は5世紀前半の当地における仏教信仰,及び西方文化と中国文-644-

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