鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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(1縁起法煩J1法身舎利偶jの名称は中国起源と想定)という,いずれも縁起関連の経するブラーフミ一文字石塔は,ブラーフミ一文字と漢字の両方で十二支縁起の経文を刻する,北涼石塔中唯一の事例だが,この党文テキストの方は玄英訳『縁起経』などに内容がよく一致する(Gokhale 1963,平野1964など)。ところでインドでは奉献塔内に舎利の代用品として納められた煉瓦板や銅板の縁起経の存在が十例以上報告されており(ゴーパールプル,ナーランダー,カシアーで出土,5 ~ 7世紀),ガンダーラにも銅製舎利容器にこれを刻した例(クラム出土,2世紀)がある。関連して重視されるのはグプタ朝からパーラ朝にかけてのインド・ガンダーラで制作された,パーリ文または併行の党文で書かれた短い韻文の,所謂,縁起法領を刻んだ莫大な数の奉献板で,奉献塔の内部に納入されたものもある。これらは欧米やわが国の多くの先行研究の注目するところだが,特に山田1984では「インド法によれば,香末で造った小さな泥塔内に書写した経文を法舎利として安置するJU大唐西域記』大正51・920a), 1塔内に身舎利(身骨)と法舎利(縁起領)を安置J0南海寄帰内法伝J大正54・226c), 1仏の法身たる縁起法煩を書写して塔内におくJ(地婆詞羅訳『造塔功徳経』大正16・801b)などの文献の記載と対応させた上で包括的な検討が加えられ,身舎利の代用品として納入された経文が散文の縁起経と韻文の縁起法煩文に限られる事実に関して「縁起信仰Jの存在を想定し,経典を学習対象とするよりむしろ崇拝対象(法舎利として塔内におかれる場合も含む)とする信徒たちの間で,この経文が崇高な教法の全てをこめたシンボリカルなものとして特別な地位を与えられていたという見解が述べられており,甚だ傾聴に値する。ともあれブラーフミ一文字石塔の存在からも明白だが,北涼石塔にみられる奉献塔と十二支縁起の接点が,こうした西方の事例に連なるものであることは間違いない。長安慈恩寺周辺で多量に出土し,玄英将来の埠仏に範を取ったとの見方が有力な初唐期の埠仏群に「諸法従縁生,如来説是因,諸法従縁滅,大沙門所説」というまさしく縁起法領(ただし現存する漢訳の経律にはこれと同ーの訳文はみられない)を刻みつけたものが多数ある(肥田1985)が,北涼石塔に刻まれた経文は全て散文の縁起経であるとはいえ,縁起信仰の系譜において,その先縦をなすといえるだろう。北涼石塔の舎利信仰史上の位置づけに関して,制作の背景として涼州における曇無識の『浬繋経』訳出(421年)との聞に直接の因果関係があると断定はできないにせよ,その教説が根拠を与えた可能性を指摘しておきたい。経文を以て釈尊の遺骨に代替さ646

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