せるという考え自体は『法華経』にも見られる(同経には「遺骨塔の建立・供養の奨励jと「遺骨塔の供養の禁止,経文を舎利としてまつる支提(caitya)の建立の奨励」という相矛盾する舎利信仰が説かれる。塚本1976,山田1984)が,r浬葉経』知来性品には以下のような,法身舎利について語る一節があり,釈尊ひとりのものではない法への帰依が説かれる。中国における舎利信仰が,釈尊の遺骨たる身骨舎利への崇敬を軸に展開したことは多くの文献・文物が物語るとおりであり,改めていうまでもない。その意味では北涼石塔は例外的な存在に映るかもしれないが,北斉頃から著しく台頭する法滅尽思潮と刻経事業の盛行の関係,信徒の法身観や法帰依の表白の様相など,法ないし経典の言葉にまつわる信仰の実態を,舎利信仰との関わりにおいて体系的に理解しようとする上で大きな手がかりを与えてくれる。これらは全て今後の検討課題だが,石塔の構成原理を考える次節では第一歩として,法身舎利たる経文がもとより学習対象ではなく,また単なる崇拝対象の域もこえて,願望の成就に直接力を発揮するという期待をかけて刻まれたという可能性も,併せ述べたい。2.北涼石塔の構成原理と制作背景北涼石塔の形態上の特徴として最も重視すべきは,基壇が八角形であり,八を基本数字として諸々の構成要素が配置されていることである。胴部には過去七仏に交脚弥勤を加えた八尊,基壇部各面には計八体の天部形像がおかれ,基壇の各像には八卦が付される。周知のとおり仏塔基壇の形式はインドの円形,ガンダーラの方形が基本であり,八角基壇はアフガニスタンのハッダなどに実例はあるもののその成立は古いとはいえず,数も多くない。とはいえ厨賓出身の仏陀耶舎・涼州出身の竺仏念が5世紀初頭に涼州で共訳した『四分律』中の塔の建立法(これは舎利弗と目連の塔の建立にあたり,釈尊が示したものだが)を説いた箇所で,I基壇を四方形,あるいは円形,あるいは八角形に造る」とある(大正22,956c~957a,杉本1984)ことは,北涼石塔の形態も基本的には西北インドの先例に基づいている可能性が高いことをうかがわせる。石塔にみえる城砦形文様も起源は西アジアだが,インド・ガンダーラの仏教美術に頻繁にみら「若欲尊重法身舎利,便応、礼敬諸仏塔廟。所以者何。為欲化度諸衆生故。亦令衆生於我身中,起塔廟想,礼拝供養。如是衆生以我法身,為帰依処J(大正12・410a)。647
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