れるものである。また北涼石塔の中には,相輪頂上に北斗七星を刻む事例が存在する。これはただ一点,428年銘の酒泉出土の高善穆造塔のみにみられるものだが,柱を連想させる塔の頂に天上の北斗七星をおく構成は,ストゥーパを宇宙軸との関わりにおいて捉えるインド以来行われた見方(宮治1992)を直ちに思い起こさせる。しかしながら八卦を刻むという点からも十分に予測されることだが,石塔のこの構成原理のルーツは,古代中国においてもたどることができる。特に北斗七星と八角基壇の結びつきの由来を西方に求めた場合,Iなぜ、円形や方形でなく,あえて八角形を採用したのかj,I石塔は世界の構造を概念図のように図式化したものに過ぎないのかj,といった疑問が沸き,説明に窮する。この点はやはり中国の固有信仰との習合を重視するのが穏当であろう。そこでまず注目したいのは,中国古代の祭天基壇が八角形であったことである(福永1982)。ここで祭紀の対象となっているのは美天大帝であり,北極星を神格化した天皇大帝とは元来別物である。だが後漢の鄭玄は当時流行の北辰信仰を背景に,緯書の説を根拠にして両者を同一視する解釈を行い,これが唐代の『貞観札』などに継承されるなど後世に大きな影響を与える一方,天皇大帝は説晋南北朝時代における国家的ないし宗教的な祭杷儀礼において,国家及び個人の運命を支配する宇宙の最高神としてしばしば杷られた(福永1987)。また後漢末から親晋南北朝にかけて形を整えた道教において,北斗七星が北辰の命を受けて人の命運を司り,その命運は北斗中の本命星によって支配されるという理解を基礎に種々の道術が考案されたこと(麦谷1994)もよく知られるとおりである。北涼石塔における八角基壇と北斗七星の接点をこれら諸点から想定することが許されるならば,石塔の構造と機能が中国古代に起源をもっ祭天的な要素を含んでいる可能性が浮上する。ところで石塔にはいずれも願文が付されている。短文のため造立・奉献に込められた願いの詳細や,造立後に行われたであろう儀礼の一端をうかがい知るための十分な材料を与えてくれるとはいえないものの,I為十種父母報恩歓喜j(高善穆造塔),I為『漢書』巻二五下郊杷志第五「既定,衡(匡衡)日『甘泉泰時紫壇,八飢宣通象八方。五帝壇周環其下,又有群神之壇,以尚書檀六宗,望山川,1,扇群神之義.IJ(下略)。顔師古注「鰍,角也」。『後漢書J志第七祭記上「建武元年,光武即位子郁之陽。祭告天地,采用元始中郊祭故事。六宗群神皆従,未以祖配。天地共慢,飴牲尚約」。劉昭注「黄図載元始儀最悉,日,元始四年,宰衡葬奏日(略)。於是定郊杷,記長安南北郊,罷甘泉,河東市E。上帝壇円八鰍,径五丈,高九尺(下略)J。648
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