供養者の先祖の霊をつかまえ十門の前につれてこさせることそして今度は天の精霊がそこでこれをつかまえて,天につれてゆくことにあった。したがって十方の地の精霊と天の精霊と,二種類の精霊を別々に来させねばならない。前者は十門の前によびだされ,後者は聖域の内部によぴ入れられる。(中略)こうしてそれぞれの種類の霊はその固有の場所に召集をうける。天の精霊は聖域の真中に,十方の地の精霊は十門の一つ一つに,そして死者の霊は家族の墓の上にJ。文献の年代からも,また地理的にみてもこれを直ちに北涼石塔の解釈に適用できるというつもりはなく,また仏道二教聞の先後関係・影響関係を問えるだけの知見も筆者にはない。しかし上述した石塔と漢代祭天基壇の類似や,武威磨岨子でも出土している漢代の式盤の存在なども考慮すれば,世界の構造を象徴的に示した聖域(たとえ雛型であっても)をつくって,死者および生者の命運を絶対的存在に委ね,そこに働きかけることで願いを成就させ,救済を獲得しようとする発想においては,両者はほぼ同じ根を有していると確信する。そしてさらに筆者の見解を述べれば,北涼石塔の構成が単に特定の世界観を静的に図式化したものではなく,霊魂ないし精霊が交通する場としての動的な構造を具備するモノたらしめようとして生み出された(どの程度深い理解に基づくかはおくが)と考える。すなわち小南1989に示されるような,葬送儀礼に用いられる査を通って死者の魂がこの世と彼岸の聞を往来するという,中国古代における霊魂観のー形態と同様の観念の存在を背景に認めるわけである。北涼j且渠氏は旬奴に出自をもつが,彼らの葬送儀礼のうちに後漢時代以来の漢人の呪法が脈々と継承されていたであろうことは,トルファン・アスターナ古墓群の祖渠蒙遜の妻彰氏(充族と推定。王素1994)の墓で,吊書の随葬衣物疏(承平16年=459年の年紀あり)や鉛人が出土していること(吐魯番文管所1994)などからも推定可能であると思われる。鉛人は陳西・河南・江蘇などの後漢墓でいくつか出土例があり,それらは通常,朱書の願文を記した陶査の中に納める,という作法で埋納されたと考えられる(大重1990)。鉛人を伴わない事例も含めれば,朱書願文を付した陶査はかなりの事例がある。願文は「如律令JI急急知律令」などの文句で結ぼれるのが常だが,彰氏墓の衣物疏の末尾にも「急急如律令jの定型句がある。小南1994は漢代の陶壷の願文において死者を仙界に送り込み,死者の霊が生者に災禍をもたらすのを回避することに最大の目的がおかれていたことを述べ,宝鶏出土の92年銘の事例(この種の願文中に頻出する「天帝使者jを「黄神北斗主」にパラフレーズし,死者が天帝の支配のもと,天門をくぐって北斗公のもとにいくという考えを記す)などにみえる言葉と,-650←
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