鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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そこで注目されるのが4~5世紀に中国に登場した『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪しミ。北斗黄神の精たる黄帝が天地を結びつける機能をもっという緯書にみえる観念を照合して,天帝使者と黄帝の機能の類似性を指摘する。また同1989では敦埠仏爺湾の墓中で発見された陶査(西涼建初元年=405の紀年と考えられる)の銘文中に「北辰の詔令」の文言がみえ,死者の魂が入るとみなされたこの壷が「斗瓶J(斗を北斗・南斗の斗と解する)と呼ばれていることなどを挙げて,この種の陶壷を墓中に納める風習が,中原から離れた西域に近い地域では五涼時代に至るまで継続して行われていたことを指摘する。この示唆に富んだ見解は,頂上に刻まれた北斗七星の役割を含めた石塔の構成の解釈にも十分応用可能と思われ,その理解をより具体的ならしめるとともに,造立の際して類似の願望(祖霊に関する願望が全てとは思えないが)が作用していたとの推測も可能にする。この推測が正しいならば,石塔上に刻まれる図像群の性格も自ずと明瞭になってこよう。胴部の八尊は,石塔の構成上の基本数字である八に合致するという理由で選択された尊像であることはもちろんだが,それは単に過去七仏と弥勤を世代的系列に沿って配列したものではなく,祈り,働きかける(実際に石塔を前に呪法が行われたかはともかく)対象としておかれたものであると考えるべきだろう。また基壇の八卦を付した天部形像についても,願いを成就へと導く守護的な尊格であろう,と大凡の予測がつく。インド色ないし中央アジア色の濃厚な姿をみせる八天像は四人の男性と四人の女性によって構成され「乾父J1坤母J1長男J1中男J1少男J1長女J1中女J1少女」の傍題を付す例もあって,全体として一家族に見立てられている。その名称については「伊舎那天・毘沙門天・風天・水天妃・羅利天・焔摩法王后・火天妃・帝釈天」(久野1995),1龍神王・樹神王・獅神王・鳥神王・河神王・山神王・火神王・象神王」(段1996b)などの見解が提出されているが,いずれも決定的な根拠があるわけではな経』や『濯頂経j(ともに大正21)といった,陀羅尼の類を含む雑密的経典(この着眼自体は股1996bにすでにみられる)である。この両経には過去七仏が石塔の傍題と同じ名称(1維衛仏,式仏,随葉仏,拘留秦仏,拘那含牟尼仏,迦葉仏,釈迦牟尼仏J)で登場する(殿1991,村松1995など)。この名称が『増壱阿含経』などにみえるものと異なるという事実は,前出の十二因縁経が『増壱阿含経』の一部としてでなく単行流布していたという見方をさらに補強する(竺仏念訳本に一致している可能性は捨てき-651-

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