記集.I,r高僧伝』の伝(大正55・102c~103b,同50・335c~337b)は彼が十歳にして呪れないが)が,それにもまして重要なのは,先の二経に七仏所説の陀羅尼がみえ(r大陀羅尼神呪経』に北辰信仰がみえることも併せて注意される),七仏にかかわる呪法とその実践による功徳の一端が具体的に説かれている点である。この文脈で七仏の性格規定ができるならば,八体の天部像についても,現状では断定できるに足る資料を欠き,また中国在来の神々との習合関係も考慮せねばならぬため(後漢末の折南画像石墓の八角柱に刻まれた神々の図像なども想起される。林1989)尊名の特定は樺られるとはいえ,機能面では両経にみえるような種々の守護尊格(方位に関わる者も多くみえる)に近い存在であると位置づける筆者の見方(この限りでは股1996bの見解と基本は同じである)も現実味を帯びてくる。ただ,ここに掲げた両経は,石塔に直接結びっく資料としては扱えない。前者は東晋時代の失訳とされるものの流布した地域の特定は困難であり,後者は黄議斎との類似が指摘される儀礼の次第が説かれるなど,きわめて興味深い内容を含む中国撰述経典だが,撰述の時期は5世紀半ばに下る可能性が高い(阿1995は457年頃と推定)からである。しかしながらこれらと類似の内容をもっ経典が流布ないし生成する場に相応しい条件を五世紀前半の涼州付近が備え(その一端は先に葬送儀礼についてみたとおり),両経の内容に集約されるような信仰形態が北涼仏教のうちに存し,かかる背景のもとで,石塔のうちに中国土着の呪術的要素と西方からもたらされた呪術的要素が揮然一体となって再構成されていることは,北涼仏教に底流する祈祷宗教的側面を考慮すれば,十分に想定可能である。先にも触れた曇無識の事蹟を例にとって,この点を確認しておこう。五胡時代諸国において,外国人僧侶はしばしば神異僧として重用された。石越における仏図澄などはその典型といえるが,異文化圏からやってきた彼らは科学と呪術が未分化の当時にあって,目新しい知識や技術を駆使して為政者や民衆の心を掴み,それによって教線の拡大を図った。稀代の訳経僧として北涼の仏教界に君臨した曇無識にも,医術や占星術を含んだ呪法の使い手としての,もう一つの顔があった。『出三蔵書を読み,I明解呪術,所向皆験」と称され,西域で大呪師と呼ばれたという。祖渠蒙遜が最大の期待をかけたのもこうした側面であり,災疫の多きを予言し,それを信用しない蒙遜を術で恐れさせたのち,悪鬼を退散させた識に対する蒙遜の畏敬の念が益々高まったという逸話もある。のちに431年,北貌の太武帝が識の学識と験力を知っ652
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