て平城に迎えようとするが,この傑僧の流出を極度に惜しんだ蒙遜の派遣した刺客によって識は翌々年に殺害された(石田1968,段1996bなど)。ここで改めて石塔上に刻まれた十二支縁起に目を向けることにする。十二支縁起イコール法身舎利であるという認識も含め,これが明らかに西方の前例に範をとった要素であることは先述したとおりである。「法身舎利」という抽象的教説の真意が,石塔造立に関与した人々にどの程度まで浸透していたかについては疑念を挟まざるを得ないが,曇無識がそこに教理的裏付けないし理念的支柱を与えるかのような『浬繋経」の訳出を行う一方で、,上述したような神異僧でもあったことは,当時の涼州付近でこの教説がI経文(特に縁起経)は舎利と同一,すなわち実在する釈尊そのものであり,(厳密には釈尊をこえる存在というべきだが)かつ諸願の成就を可能ならしめる一種の呪文ないし護符でもあるjといった次元まで噛み砕いて説明され,何らかの祈祷的行為と結びついていたことを想像させる。先に石塔造立の基本構想、に「絶対的存在」に命運を委ねる,という考えがあると述べた。北斗,八体の仏像,縁起経はいずれもその条件を満たす要素だが,十二支縁起はその中でも石塔の構成上,中核をなす存在と認知されていたと考えられるだろう。北涼仏教の祈祷宗教的傾向を曇無識一個人に帰することは無論できないが,彼に代表される当地の教団の布教態度は,願望の成就という信徒の現実的欲求に応えることを最重点課題としたきわめてフレキシブルなものであったと推測される。そして西方的要素と中国的要素がとけあった石塔は,密教的呪法を軸に両者を牽強付会の解釈を含んだ類比関係で結ぴつけて説明し,一つの体系を作り出す力を北涼仏教が備えていたことを物語る証拠と位置づけられる。この融合に,外来宗教たる仏教と中国文化が最初に出会う地である,涼州周辺ならではの地理的条件が大きく作用していることはいうまでもなかろう。以上雑駁な考えを書き連ねたが,北涼石塔の基本的性格はほぼとらえることができたのではないかと思う。弥勤信仰,法減思想、,機悔思想、との関係,雑密的信仰の平城仏教への波及など論じ足りない点が多く,また考証も不十分だが,詳細は他日に期するとして,ひとまずの区切りとしたい。主要参考文献覚明居士(向達)(1963) r記敦燈出婆羅謎字因縁経経瞳残石J~現代仏学.11期-653-
元のページ ../index.html#663