5.盛唐期竜耳瓶の特徴とまったく同じである。頚部に2本の突帯文,胴部2箇所に圏線文が,鶏首壷と同じようにみられ,2本紐を合せた竜柄には珠文の貼付はみられない。白色でわずかに黄色みおびた粕が胴部中位を下がった位置までかけられている。これらの竜耳双胴瓶の製作年代は,陪代の7世紀初頭と考える。このように,竜耳双胴瓶は,倒卵形の胴部,突帯文の施された頚部,一部に鋲文を貼付した竜(鳳)瓶の出現,これらは上記の晴代鶏首査の構成要素と共通し,そこに祖形がもとめられる。もちろん白姿竜耳瓶とも特徴を共有するものがおおいが,相違点もあげられる。すなわち,竜頭把手を一つの胴につけるか,二つの胴部につけるかの相違と,竜耳双胴瓶は,器高が出光美術館例をのぞいて20cm以下の小品であり,一方古式と推定できる竜耳瓶が50cmあるいはそれをも超える器高をもっていることは看過できない。さらに重要なことは,竜耳双胴瓶のほとんどの遺例が,類似の形態をみせ,非常に限られた時間内に製作されたことを示唆させ,さらにこれ以降の遺例を見出せないことである。すなわち,これら竜耳双胴瓶は,鶏首査から発展した器形とおもわれるが,陪代後半に生まれ,そして短期間で消えていった器形であるといえよう。したがって,鶏首壷→竜耳双胴瓶→竜耳瓶の直線的な図式のみを必ずしも考えなくともよいことを,ここでは指摘するにとどめる。まず遺例の大多数を占めるとみられる8世紀前半代の盛唐期の竜耳瓶の資料をさぐりたい。この時期の出土例として,長安3年(703)の河南・張思忠墓,神竜2年(706)の河南f医師の宋禎墓,盛唐の後半かとみられる河南・伊川白元唐墓などがある。三彩竜耳瓶で頚部に弦文をめぐらす出土例もあり,武則天期と報告されている西安西郊唐墓品,開元26年(738)の鶴壁市王仁波墓出土の竜耳瓶は希少な黒紬品であり,他に神竜2年(706)の議徳太子墓から三彩品が出土している。盛唐の8世紀前半期を中心とする出土竜耳瓶には,総じて,胴部が倒卵形から丸みをまし,頚部が短くなり,それに対応して弦紋を略するものがあり,貼花文をみない。この形式品は,かなり大量に遺存している。したがって,三彩・自室と合せて,相当数の竜耳瓶がこの時期のものであり,これらを第4形式とし,7世紀第4四半期から8世紀前半の盛唐代に位置づける。さらに57 -
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