phu (2) シンポジウム史・美学研究の展開と動向の中心であったことを考察し,林氏は日本の美術史研究の西洋からもたらされる研究モデル偏重からの「脱構築」への試みを報告された。また仲間は美術史のローカルな視点のーっとして特に近年ドイツで注目される,アイデンテイテイ追求としての受容史研究の是非について問題を提起した。「身体,メディアそしてイメージ」をテーマにベルテイング氏,高階秀爾氏(東京大学名誉教授),大橋良介氏(京都繊維工芸大学教授),辻成史氏(大手前大学教授)にそれぞれ報告をしていただいた。ベルテイング氏は「影の画家ダンテjにおいて,1465年に描かれたドメニコ・デイ・ミケーリノのダンテの肖像画が影を投げかけていないことに着目し,ダンテ自身が煉獄で彼の生きた姿を描写したこととは対照的に,絵画は死のダンテの再現であることを指摘された。身体が喪失をした場合,イメージと影が不在の身体の記憶となることを詳細に論じられ,マザッチオの〈病者を癒す聖ベテロ〉とミケランジエロの〈最後の審判〉をこの論点の展開のなかで考察し,報告された。高階氏は「近代ピグマリオンの運命」において,近代の身体性の問題を論じられた。18世紀の合理主義のもとに生まれた機械論的人間観と自動人形,その凋落の結末としてのフランケンシュタインに至る過程,そして19世紀以降もはや超越的,神的なものへの信頼が失われた時代にガラテアはファム・ファタールに変貌し,世紀の女性の「タイプ」になることをピアズリーのサロメ像などを例に分析し,考察された。大橋氏は「“メディア身体"としての世界」において,人間の身体そのものが全体として視覚性をもっ「全身視覚」であり,現代メディアの世界そのものを人間の身体性の展開として把握されうること,またハイデツガー他の論を引用し,1メディア身体としての世界」において,1自己J,I人格J,I自我jの概念が従来の理解を破って新たに解釈されることを指摘された。辻氏は「巡礼女エゲリアの闇あるいはイメージの此方jにおいて,初期ピザンティン時代と推定されるゲミレル島の会堂に描かれた船上に立つ人物のグラフイテイを巡り,ベルテイング氏のメディア・身体・イメージ論を引用し,暗闇のなかで当時の人々はこのグラフイテイを身体を備えたイメージとして見たであろうことを,現実と表象=イメージの互換として指摘された。報告後のデイスカッションにおいては,おもに身体にまつわる影とイメージについて意見の交換がなされた。
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