鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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居)C図2Jと呼ばれる一角(現在は非公開)に収蔵されているので,I冬季用住居jの歴代主を挙げる。最初の主人は,メデイチ家フランチェスコ一世とオーストリーのヨハンナとの娘,マリア。マリアは後のフランス王ヘンリー四世と結婚し,その王妃となる。中略。マリアがフィレンツェから婚家のフランスへ去った後,マリアとは母違いのドンアントニオが次の主人(1611-1629)となり,バレー劇などが演じられ華やかな時代であった。三代主は,フェルデイナンド二世の弟,レオボルド枢機卿,当住居の黄金時代を迎える。レオボルド枢機卿は科学や文化に造詣が深い教養人でもあったので,古文書類,数学術の機器,手稿類,スケッチや彫刻,絵画類などが収集された。邸内の内装も工夫が凝らされて,バロック調の浮彫や彫刻類が置かれ,殊更に,邸内は豪華な雰囲気に盛り上げられた。レオボルドの死後,フェルデイナンド二世の次男,フランチェスコ。フランチェスコは枢機卿の地位を捨てて,エレオノーラ・ゴンザーガと結婚するが,1711年,結婚後まもなく没し,メデイチ家直系は絶える。フランチェスコの未亡人エレオノーラがメデイチ家最後の主人となる。オーストリア皇帝支配下となりトスカーナ地方はロレーナ時代に移行する。ロレーナ時代の初めの当主は,女帝マリア・テレーザの夫フランツ。フランツはウィーンに住み,ピッティ宮に住むことは生涯なかった。その後,後にオーストリア皇帝となるピエトロ・レオボルド,そして,レオポルドの次男フェルデイナンドがメデイチロレーナ両家の後継者としてトスカーナ大公となり住居主となる。このフェルデイナンド時代に改装が行われ,既に,流行遅れとなっていたバロック様式が姿を消す。フランスの支配下を経て,1815年,ロレーナ家の帰還。新たに「舞踏の間jなどの改装がされ,ポッチャンティ(註40)の設計で,彫刻師,浮彫師など多くの細工師を使用,様相を一新。1824年,フェルデイナンド三世没後,大公となったレオボルド二世は1859年にトスカーナを去り,ロレーナ時代の終駕を迎えるが,この少し前の1842年,最後の重要な内装が加えられることになる。現在「中国の間」と呼ばれている部屋でフェルデイナンド三世の未亡人マリア・フェルデイナンダ大公夫人私用として説えられた。この時に説えられた家具調度類によって,現在の通称が定着したのであろう。当時流行であった異国風の花や鳥や異国人の姿,東洋趣味の龍などが装飾意匠として用いられ,揃いの家具調度品が仕上げられた。イタリア統一,サヴォイア時代。短い期間(1865-70年)ながら,フィレンツェは676

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