鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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ハ同dハhuの頃から全国をほぼ統一する王朝が生まれており,それから現在に至るまで1500年もの長い間,独自の文化が形成され,発展してきているのです。仏教や神道の宗教美術の他に,生活を楽しむための世俗美術も大いに発達し,多くの画家や彫刻家,あるいは工芸家などの美術家を生んできたものです。しかし,外国の人たちにまでその名を知られ,作品を愛され親しまれてきた存在ということになると,近代以前にはほとんど無きに等しいことでしょう。わずかな例外が,ここに紹介しようとする,画家であり版画家でもあった,葛飾北斎でした。北斎は,今から150年前ほど前の1849年に亡くなるまで,江戸すなわち現在の東京で,浮世絵師として活躍しました。浮世絵とは,将軍の政府(“幕府つがあった江戸の町に,庶民である町人の美術として発達した絵画および版画でありました。北斎は,色摺りの木版画や墨摺りの版本の挿絵,そして肉筆画に,大量の作品を残しています。数え年90歳で亡くなるまでのでなく,その評判は当時の将軍や天皇の耳にも達していたほどでした。現在も残された作品の中に,将軍や天皇の注文によって描かれたと推定されるものが,わずかながら伝わっているからです。西瓜に包丁を描いた〈西瓜図〉は天皇のために,また,二人の美しい女性を描いた〈二美人図〉は将軍のために,それぞれ描かれたものと推定されています。そしてまた,当時の日本は鎖国状態にありながら,ヨーロッパの人から直接依頼されて出来た作品すらも現存しているのです。〈日本人風俗図〉を見てみましょう。オランダのライデン国立民族学博物館に所蔵される北斎の肉筆画全15図は1826年に江戸にやってきたドイツ人,シーボルト(PhillippFranz B. Von Siebold)が,当時江戸で一番の画家と評判の北斎に,日本人の生活の様子を描くように頼んだものでした。このように北斎はその在世当時から誰からも愛され,好まれる画家であったのです。若き日の北斎は,一般の浮世絵師たちと同様,歌舞伎役者の舞台上の姿や美しい女性たちの風俗を描いて,名前を売り出そうと努めました。そして,40歳代から50歳代の中年になると小説の挿絵に,主な活躍の場を求めました。さらに70歳代になると〈富巌三十六景・凱風快晴}{富巌三十六景・神奈川沖浪裏〉といった風景画という新しいジャンルを聞き,有名な富士山の連作などで人気を博しました。80歳代の最晩年は,肉筆画に最後の情熱を注ぎました。〈小布施町の山車の全景〉に映っているのは,祭り約70年間,常に人気のある現役の浮世絵師として活躍した北斎は,庶民の支持ばかり

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