鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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の時に街頭を曳かれる大きな山車(だし)の全景と,その天井に北斎が描いた板絵〈鳳風図天井絵〉のー図です。北斎が天井絵〈波図天井絵}<竜図天井絵〉を描いた山車は2台で,1台に2図ずつ,合計で4図残っています。このとき北斎はすでに80歳代の中頃でしたが,江戸から約250kmも離れた山国の小布施(おぶせ)という町まで,歩いて旅をしたというほどに元気で,はつらつとしていました。このような多彩で,変化に富む活躍をした北斎ですが,ヨーロッパでその名をとくに知られるようになったのは,r北斎漫画Jというタイトルの絵本によってでした。19世紀の後半から20世紀の初めにかけて,ヨーロッパの各地にブームを起こしたジヤボニズムのきっかけは,日本の陶器の詰め物(パッキング)に使われた『北斎漫画』が注目されたことだという,有名な逸話も伝えられています。それでは,r北斎漫画Jとは,いったいどのようなものだったのでしょうか。『北斎漫画』は全部で15冊の木版刷りによる絵本です。目立ちませんが,わずかに色刷りがされています。黒い墨の主版(おもはん)の上に灰色と肌色(赤みを帯びた薄い茶色)の2色を摺り重ねています。3度刷りの版画による絵本です。初編は北斎が55歳の1814年に出版されています。写っているのは,初編の序文と扉絵です。序文は友人が書いたものですが,I漫画」とは,北斎自身が名づけたものだと証言しています。また,初版の目的は,絵をかくことを学ぶ人に手本を提供することだともいっています。ところで,日本の本は,右から左に聞いていきます。日本の文章も,上から下に,そして,右から左に読みます。東洋と西洋では何でも逆になることが多いのは面白い現象ですね。今映っているのは,右が第15編の見返し扉と左が最終図と奥付です。明年目に当り,完結するまでに60年以上の年月がかかったわけです。北斎が自ら名付けたというこの「漫画Jという言葉は,現代の日本語でいう「マンガ」すなわち「ユーモラスな略画」という意味とは違って,1漠然と描いた略画J,あるいは「筆に任せてとりとめもなく描いた略画」というような語感で使われているようです。お坊さん(仏教の僧侶)が何人かでお経を読んでいる様子や托鉢のために歩いている路上の姿が,生き生きと描かれています。これらの人の姿や形は,別に目の前の人々を写生したわけでなく,いずれも北斎の頭の中にしまってあるイメージから取り出してきたものです。治11年,すなわち,1878年に刊行されたことが分かります。北斎がなくなってから30-700-

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