鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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お米が入った俵がたくさん積み上げられています(10編〈鼠の隠れ家))。金貨を龍に入れて運んだり,帳簿を見ながら相談したり,宝物が入った重そうな袋をひばっていたりなど,働く鼠たちが大勢登場しています。北斎が生きている聞に刊行された最後の『北斎漫画.1,第13巻には強い風の吹く中を走る虎の図が出てきます(13編〈走る虎))。この図と,亡くなる年,90歳で描いた肉筆画「雪の中を走る虎」とがよく似ていて,あたかも虎が北斎自身の自画像のようにすらみえてきます。『北斎漫画』は,本来,絵を描く手本,絵手本として作られ,出版されたものですが,北斎も読者も,それだけでは満足しませんでした。絵を描く人の便利な教材であると同時に,見ても楽しい絵本として作られているのです。ありとあらゆる物の形を,わずかな線によって写し出す魔術師のような技術のすばらしさ。人や物をいくつも並列して描くことにより,意味や情感が広がっていくおもしろさ。形を誇張して描くことにより動きや勢いが強調される可笑しさ。見なれた日常の人々の姿が伝えてくる,人としてこの世にあることの悲しさや可笑しさ,そして「我も同じ」と共感する隣人としてのなつかしさ。北斎の描く一図一図は,それを見る私たちに,この世の姿とそこに生きる人の心とを改めて見つめなおすように教えてくれているようです。『北斎漫画』が,日本の,やがては世界の人々に愛され続けるようになるのも,画家北斎の人や社会を見る目の確かさと優しさとに誰しもが共感させられるからでしょう。現代のマンガ文化が,こうした『北斎漫画』を古典として学び,人間と社会への鋭く,深い洞察に富んだものとなるよう,心から願われます。『北斎漫画』は汲めども尽きない教えと楽しみを内にたたえて,今もなお新たな読者を待っているのです。長時間にわたりご静聴有難うございました。-704-

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